老犬虚に吠えず

社会問題について考える場として

ウクライナ侵攻でさえ『感動ポルノ』にする自分達の『卑しさ』

 貴方は、2日で100kmを歩いた事があるだろうか?

 

 自分はある。20年以上前、自分が高校生くらいの時だった。

 なぜ? とか、何のために? といった理由は無い。しいて言えば、当時の自分はボーイスカウトで、その活動の一環だったというだけだ。ボーイスカウトではこの活動を『100kmハイク』と言う。

 

 やり方は色々あるのだろうけれど、自分達の場合は、ハイキングに行く様な軽装で、携行食や飲料だけを持ち、ひたすら歩くというものだった。短い休憩や仮眠は挟むけれど、夜通し歩き続ける。昼から歩き始めて翌日の夜にようやく帰って来る。そんな行程だ。

 

 最初に電車で出発地点に行き、そこから徒歩で帰って来るという道程なので、家に帰る為にはひたすら歩かなければならない。途中で諦めて引き返すという選択肢は無い。なぜなら、歩き続ける事が家に帰る唯一の方法だからだ。

 

 何でそんな活動が伝統的に存在するのかは知らない。こっちが教えて欲しい。

 100km歩く事に意味があるかと言われれば、無い。

 まあ、達成感とか思い出作りとか心身を鍛えるとか、もっともらしい理由はいくらでも後付けできる。でも、本質的に言えば、本当に意味は無いのだと思う。

 

 なぜ今、ロシアのウクライナ侵攻のニュースを見ながらこんな事を語りだすのかというと、この戦争が、本当なら意味なんてない100kmハイクの意味を考えるきっかけになってしまったからだ。

 

 

 自分は、戦争を知らない。

 

 

 もちろん、テレビでもネット上でも、毎日ウクライナ侵攻のニュースが流れている。でもそれをただ見る事が、戦争を知る事になるのかと言われれば、違うんじゃないかと思う。

 

 ネットニュースのコメント欄やSNSでは、連日匿名の有識者達が軍師にでもなったかの様に戦況分析をしたり、「自分も『その時』が来たら、きっと銃を手に国を守るんだ」なんていう勇ましい言葉を書き連ねてみたりしている。愛国心の素晴らしさを説き、感動に瞳を潤ませている。

 

 でもそれは、あくまでも『想像』だ。

 『想像』には、いつだって『願望』が入り交じる。

 

 日本ももっと軍備を整えなければならない。

 保有する兵器の近代化。不足する自衛隊員の確保と処遇改善。憲法改正。核保有

 妥当な要求もあるし、荒唐無稽なものもあるけれど、基本的には願望混じりの想像が膨れ上がって行く。

 

 それはなぜかというと、自分達が願望混じりの想像をベースに戦争を考えているからだ。

 

 敵(誰?)がどこかから攻めて来る。

 自分達はそれを迎え撃たなければならない。自衛隊が敗走し、劣勢になった政府は今のウクライナ同様、総動員令を発令する。18歳から60歳までの男性が国外に退避する事が禁じられる。そして、自分達に武器を取って戦えと命じる。

 自分達は家族を、祖国を守る為に愛国心を奮い立たせ、敵が迫る街で相手を待ち伏せる。ここで退く事は仲間や家族の死を意味するからだ。

 後方から援軍が到着するまでの数日。家族が退避するまでの半日。虐殺が始まるまでの数時間。その時間を、自分達が命を賭して稼がなければならない。

 

 

 ――そんな、勇ましい願望。

 

 

 そこにリアルはあるんだろうかって思う。

 戦争はそんなにヒロイックな物語だろうか。

 戦争なんて、きっともっとろくでもない。

 もっと意味なんて無い。意義も無い。身も蓋もない。

 そこで起きる死には、意味なんてきっと与えられない。

 

 

 じゃあ、戦争を願望ベースで想像して終わらないためにはどうすべきか。

 

 とりあえず、みんな今週末にでも100km歩いてみればいいんじゃないかって、自分は思う。つまらない極論だけどね。

 高校生、それも文系で体育嫌いで体力がない自分にだって出来た事だ。予定さえ組めば、誰にだって出来る。貴方にだって出来る。

 

 それで得られるリアルっていうのは、ただ『歩き通す』っていう事がどれだけ辛いかっていう実感だ。

 

 最初の10kmで辛くなる。

 20kmで歩き始めた事を後悔する。

 30kmで両足のふくらはぎはもうパンパンだ。

 40kmで靴の中の足はマメだらけ。それを針で潰しまくる。

 50kmで体力の限界を超える。まだ半分しか来ていない事に絶望する。

 60kmでもう休憩したくなくなる。座ったら立ち上がる自信が無いから。

 70kmで精神力も尽きかける。歩きながら意識が遠くなる。

 80kmで両足が自動的になる。歩いている実感が失せる。時間が飛ぶ。

 90kmで希望が見える。でも何もしていないのに鼻血が吹き出したりもする。

 100kmで力尽きる。座ったら立ち上がれない。2度とこんな事するもんかと心に誓う。

 

 ほら、ろくでもない。意味もない。止めておいた方がいい。

 『歩く』っていう基本動作を繰り返すだけで拷問じみてくる。

 

 でも『戦争』を前にして自分達がするべき覚悟っていうのは、結局こういう事なんじゃないだろうか?

 

 武器を手に戦う覚悟じゃなく、自分に敵が撃てるかなんていう心構えの問題でもない。

 愛国心と恐怖心、戦意と良心のせめぎ合いなんていう人間ドラマよりももっと手前。

 

 ――街が燃える。

 家は失った。もう帰る場所はない。どこまで行けば安全な場所に出られるのかも分からない。

 自動車の燃料は尽きた。自分で背負えない荷物は車と一緒に捨てて来た。

 情報は入って来ない。ラジオは沈黙しているし、噂は錯綜している。

 あと数日で敵が押し寄せて来るぞという話が聞こえたかと思えば、既に隣の市が陥落したという話も流れて来る。

 

 そんな中で、ただ生きるためだけに歩く。

 少しでも戦場から遠くへ。

 逃げる? いいや、生き延びるために。

 

 

 自分は、ただ歩くという事の辛さを実感として知っている。

 だから戦地から避難するために、人々が列をなして歩いている光景を見ると胸が締め付けられる。特に、小さい子どもが歩いている時には。

 

 高校生の自分が意味もなく100kmを歩き通す事ができたのは、それが家へと続く『帰路』だったからだ。間違いなく、そう思う。

 

 こんな嫌な事は、やがて終わるんだ。

 ゴールに辿り着けば。100kmを歩き通せば。

 途中、空き地で仮眠しなければならなかったとしても、家に着いたら風呂に入れる。柔らかい布団で眠れる。そういう保証があって歩く100kmなんて、ゴールできて当然だ。子どもの遊びみたいなもの。ただ両足を動かせばいい。嫌な事を少しの間だけ我慢すればいい。

 

 家に辿り着くまで。

 

 でもね、戦地から逃げて来る人々には、もう家はないんだよ。当たり前だけど。

 ゴールもない。目標も見えない。100km歩いた後で、更に100km歩け、1,000km歩けって言われる可能性だってある。

 

 それがどんなに酷い事か、自分には分かる。実際にマメをいくつも潰しながら100km歩き通した過去があるから。

 

 自動車もバイクも自転車もある世の中で、自分の脚で100km歩くなんて無意味な事だ。無駄な事だ。でもその無駄だったはずの事を経験したお陰で、自分は戦争にまつわる『勇ましい願望』の手前に、無意味で無駄な、身も蓋もない辛さがある事を知る事ができた。

 

 銃を取って戦う事を心配する前に、自分が歩けるかどうかを心配した方がいい。

 自分が歩けるかどうかを心配する前に、自分にとって大切な人々がゴールの見えない道を歩かされる事を心配した方がいい。想像の中で愛国心を奮い立たせる前に。

 

 今のウクライナの惨状を見て、それでも彼らの『愛国心』に感心する、感動できるって言うのなら、それはその人が見ているのが戦争という現実じゃなく、自分にとって都合が良い様に頭の中で再編集した『感動ポルノ』だからだ。悪い言い方をすればね。

 

 人間は都合が良いから、自分が望む物語に寄せて現実を『解釈』して行く。

 

 逃げずに戦う事の尊さとか、自己犠牲や献身を伴う愛国心の素晴らしさだけを頭の中で膨らませて行く。国のために、仲間のために殉じる事が『意義ある生』をもたらしてくれるんじゃないか。この自分の人生にも意味を与えてくれるんじゃないかなんて虫がいい事を考える。

 

 でも、実際に戦争というものがもたらすのは、きっと『マメを潰しながら歩く、無意味で無駄な道程』みたいな身も蓋もない辛さでしかないんだ。しかもそこには、ゴールがない。

 

 そういうものなんだって自分は思う。実感として。

 

 逃げられれば逃げるよ、皆。

 生きられるなら当然生きたいって思う。

 こんな辛いばっかりの戦争、さっさと止めろよって誰もが思ってる。自分で汗や血を流さないで済む指導者以外は。

 

 そこに『愛国心』的なポルノを求めて感動したいのは、自分達外野の勝手で、都合が良い解釈でしかない。それもまた、自分で汗や血を流さないで済むから出来る事だ。画面の向こう側で、無味無臭に漂白された情報だけを得られる自分達だから出来る事。

 

 でもそういう『意味付け』は、結局のところ『卑しさ』なんじゃないだろうか。

 

 意味なんてない事に、意味を後付けして行く。

 

 ただの苦痛は意味ある『受難』に。

 ただの死は国家や民族に対する『殉死』に。

 

 無意味な事には意味が与えられ、讃えられ、崇められ――利用される。

 

 そうした『卑しさ』が自分の中にもありはしないか。

 それを疑う事は必要なんだと思う。それがどんなに――歩く度に痛む、潰れたマメの様に――不快であったとしても。