老犬虚に吠えず

社会問題について考える場として

フェミニズムと表現の問題を再考する① 『細部』から『俯瞰』へ

 先日、『宇崎ちゃん献血ポスター問題』について、こんな事を書いた。

 

kuroinu2501.hatenablog.com  

 その時からしばらく経ったけれど、その後どうなったかと言えば、今度は『女性は少年漫画雑誌の編集者になれないのか?』という問題が取り上げられ、今も議論されている。ちなみに、その企業説明会における担当者の発言は以下の様なものだそうだ。 

 

www.huffingtonpost.jp

 これらの問題を、今回は再考したいと思う。

 

 さて、前回は、フェミニズムジェンダーについて考える時、今取り沙汰されている様な表現規制は今後どの様に行われて行くべきなのかという視点で考えてみたのだが、書いた本人が言うのも何だけれど、あの文章には少し「しっくりこない」部分があった。説明するのが難しいのでたとえ話になるけれど、その違和感とは概ね次の様なものだ。

 

 何と言えば良いのか。それは何だか『細部にこだわった結果バランスを欠いた彫刻』を作っている時の様な違和感なのだ。

 

 自分は大学時代に仏教美術を学んでいて、粘土で仏像を作る所を見たりしていたし、自分でも制作した事があるのだけれど、彫刻にも絵画における『模写』と同じく、『模刻』というものがある。手本となる像や写真を見て、同じ様に像を作る事だ。そして模刻をするという事は、対象の構造や要素を理解して、捕まえ、今度は自分の手で再現する行為に他ならない。対象を理解しないと模刻はできない。では、対象をよりよく理解するには、どういう見方や感じ方をするべきか。ここが悩みどころになる。

 

 そんな彫刻を例えに出してよく言われるのが「物事は多面体である」という事だと思う。

 

 前後左右、上下、斜めなど、見る方向が違えば受ける印象は変わる。物事を考える時にも、その多面性を意識すべきだ、という事なのだが、彫刻を実際にやってみた人間が気付くのは、その多面性とは別に、『対象物との距離』が重要になってくるという事だ。

 

 制作に集中してくると、無意識に対象との距離が近くなり、より『細部』の完成度を上げようとして全体のバランスを崩す事がある。具体的に言えば、人間の上半身を作るとして、腰から上の芯を作り、その上に粘土を盛り付けて大まかな形を出す。次にその形を整え、顔ならば目鼻といった細部を作り込んで行く訳だけれど、ある程度離れて全体のバランスを見ながら作業していた状態から、『細部』の完成度を上げて行く為に対象に近付いて行く中で違和感に気付くのだ。

 

 確かにのっぺらぼうの状態からすると目鼻も出来たし、素人目には完成に近付いた様な気がするのだけれど、ふと手を止め、離れた場所から見直すとどうも違和感があって納得行かない。それはなぜか。

 

 大抵そういう場合は、『細部』を作り込んで行く過程で全体のバランスを崩していて、手本となる彫刻が持っている全体的な肉付きとか面構成のバランスみたいなものが再現出来ていない状態に陥ってしまっている。こうなると、いくら『細部』を追い込んでも駄目で、例えば顔なら一度目鼻を全部潰してやり直す事になる。不思議なもので、「細部にこだわって目鼻を作ったけれど全体のバランスが崩れている状態」よりも、一度それを潰して「粗い面だけで構成された塊としてバランスが取れた状態」に戻した方が彫刻全体としては確実に良くなる。

 

 回りくどい言い回しになったが、自分は今回の(主に女性を不快にさせる表現に関する)表現規制を求める動きについて、何だかこの『細部にこだわった結果バランスを欠いた彫刻』を、やり直しせずにそのまま作り続けている時の様な違和感があるのだ。

 頑張って細部を追い込んでいる筈なのに、完成度が上がらない。むしろ余計に悪くなっている。バランスが崩れてきている気がする。そんな感じだ。

 

 自分が今回問題にされている表現の問題を『細部』だというのは、『小さな問題』だという意味ではない。むしろ『細部』は重要だ。大きい問題だし、重要な点だ。ただ問題は、皆が細部について考えている状態だと、全体が俯瞰できないという事だ。

 対象との距離が接近し過ぎている。全体を見ないまま議論だけが加熱している。

 

 「問題となる表現で不快になった人がいるのだから、何らかの対策をすべきだ」というのは、問題解決の為に必要な『細部』としては正しい。だから皆議論しているし、それぞれの立場で真剣に考えている。社会問題としての関心も高い。ただ『細部』ではない『全体』として解決しなければならない問題とは、『両性が互いに尊重される社会を構築する事』にある。

 

 今、様々な人達が意見を出し合い、その『全体=両性が互いに尊重される社会の構築』を完成に近付けるにあたって、「女性が不快に感じる(恐れのある)表現・子どもにとって悪影響になる(可能性がある)表現を規制する」という『細部』を煮詰めて行こうとしている訳だけれど、その『細部』を詰めて行く事や、目指している方向性は、全体のバランスを欠いていないだろうか。

 

 例えば「女性の性的な側面を匂わせる表現は、献血ポスターの様な公共の場に出すべきではないし、少年漫画の中からも削除されて行くべきだ」という意見を目にする。でもそれが、『両性が互いに尊重される社会の構築』について、本当にプラスになる方向性なのだろうか。

 

 自分は一度、表現規制という細部から離れて考える必要があると感じる。

 

 ではどのくらい離れるべきか。どんな距離から問題を俯瞰するべきか。自分はそこで、これは、という小説に出会った。神林長平氏の『先をゆくもの達』だ。 

 

 

 舞台は火星。女性だけで構成された火星移住者の物語であり、男女の性差を問い直す物語でもある。子どもを産み育てるにあたって、必ずしも男性が必要とされなくなった世界で、女性達がいかに生きるのか。次はそこから現実問題を考えてみたい。