老犬虚に吠えず

社会問題について考える場として

物語に向き合えなくなった、ある本読みの話

 物語に向き合う力が、無くなったのだと思います。

 

 ひとつの物語を、その始まりから終わりまで追い続けるという事が出来なくなりました。それはライトノベルや漫画で言えば、1巻から最終巻まで読み続ける事ができなくなったという事だし、アニメやドラマなら第1話から最終話まで見る事が出来なくなったという事です。

 

 単純に『飽きた』とか『作品が自分の好みに合わなくなった』という事ではありません。1巻を読んでとても気に入った作品、続きを心待ちにしていた筈の作品でもそうです。続巻に手を伸ばす事が出来なくなりました。

 

 なら、小説の単行本の様に1冊で完結する物語だったらどうかというと、漫画ならかろうじて読み切れる程度、小説ならばそれでも持て余して途中で読むのを止めてしまう有様です。短編集も、収録作の全てを読み切るという事ができません。だから、巷で『鬼滅の刃』が大ヒットして盛り上がっていた時も、自分は原作を読もうとか、アニメを見ようとはしませんでした。途中で投げ出してしまうだろう事が最初から分かっていたからです。それは原作が面白いかどうかとは全く関係ない、受け手である自分自身の問題です。

 

 いつからそうなったのか、確かな記憶はありません。

 気付いたらこうなっていて、自分にとってはそれが凄くショックでした。

 原因は、自分でも分かりません。

 

 40代前半になって、今まで出来ていた事、それも自分では得意な方だとか、好きだとか思っていた事が出来なくなってしまった事を認めたくありませんでした。自分にとって数少ない取り柄を失ってしまう事は、杖を突く事でやっと歩いている時にそれを奪われてしまう様な不安感があります。

 

 これを失ったら、自分はどうなってしまうんだろうって。

 

 最近、ライトノベル原作のアニメが何作品か放送されています。自分はその原作を読んだ事があります。でも、途中までです。1巻か、2、3巻まで。それ以上追い切れなかった作品が評価されて、アニメになって、でも自分はそれを見ようとか、原作をもう一度追いかけようとは思えないんです。物語に向き合う為の熱量が足りない。

 

 最初は、これではまずいなと思って色々考えたりもしました。でも最近は現状に慣れてきてしまったのか、何か行動を起こそうという意欲も無くなりつつありました。丁度、コロナ禍で自由に外出や外食が出来ない生活に慣れてしまう様に。自分は今ではもう、昔なら必ずチェックしていた美術館や博物館の特別展の情報から目を背ける様になりました。どうせ行けないと分かっているのに、それらに目を向けるのは辛いからです。自分の職場は、福祉関係という仕事柄、県外への外出ができません。今は少し感染者数の増加傾向が落ち着いているので、頼み込めば許可は取れそうな気もしますが、それで何かあった時の事を考えるとやはり二の足を踏んでしまいます。そんな事をしている間に、県外に出られない生活が『普通』になって、自分の世界は以前よりも少し狭くなりました。

 

 不思議なもので、その狭くなった世界を窮屈だと感じる事も、次第に少なくなって行った気がします。その狭さ、窮屈さに自分自身が慣れてしまうのかもしれません。

 

 でも、『このまま本を読まなくなってしまうのか』と思うと、それはそれで胸の奥の方がチクチクとします。

 

 作家なら、『筆を折る』という言葉があります。でも読者の側には、本から離れる事を意味する言葉があるでしょうか? 栞を挟む? 本を伏せる? でも本を伏せておくと傷んでしまうから駄目だなぁとか、どうでもいい事ばかり思い浮かびます。でも胸のチクチクは消える事がありません。

 

 読みたい本が無くなったという訳でもなく、実物の本にしろ電子書籍にしろ、未読のまま積み上げてしまった本は数多くあります。途中まで読んで、最後まで読み切る事を断念してしまった本もあります。それはどこか自分の中で『宿題』の様になっていて、そのままにしておくのは物語に対して誠実な態度ではない気がします。

 

 だったら、自分はどうするべきか。

 

 色々と考えてみましたが、結局答えは見付かりませんでした。どこに正解があるのかも分かりません。ただひとつ試してみたい事があり、しばらくの間、Twitterから離れてみる事にしました。

 

 もともと自分はあまりSNSを活用しない人間なのですが、様々な人が自分の意見を述べ合う場としてのSNSは好きでした。自分とは異なる意見や視点が存在する事を気付かせてくれるものとして、助けになった事は数多くあります。ただ、『自分と同じ意見や価値観を持つ人々を選んで繋がる』という使い方をせず、『様々な意見が飛び交う場所』としてSNSを使っていると、やはり価値観が異なる者同士、意見の対立が起きます。その発言内容は先鋭化、過激化して行き、強い言葉に感情を揺さぶられて疲弊する事も多くなりました。

 

 SNS上では、個々のユーザーは平等な様でいて、そこには明確な格差があります。それは『声の大きさ』だと自分は思います。影響力≒フォロワーの数がそうです。大統領や総理大臣、芸能人や著名人、そんな人達と一般のユーザーが同じ『1アカウント』を使って交流するのがSNSですが、その1アカウントが社会に対して与える影響は同じではありません。当然の事ながら、そこには各々が行使できる影響力の差、『声の大きさの違い』が存在します。現実と同じですね。

 

 声の大きな人が発した一声は、自分の様な『声が小さい』発言者の言葉をかき消します。そして、そうした声の大きさを持っている人の言葉は、往々にして断定的で、異論や反論を許さないものです。「~かもしれない」と言うよりも、「~だ」と言い切る事ができる者に人は付いて行きます。その発言の正しさによらず。誰とは言いませんが、著名人に断定口調が多いのも偶然ではないのでしょう。

 

 本来、何かの問題について『話し合う』時、誰が正しいのか、何が正しいのかという事は容易に切り分けられるものではないのだと思います。AさんとBさんがいれば、Aさんが100%正しいという事もなければ、Bさんが100%間違っているという事もない。それぞれに至らない部分があり、気付いていない事柄があり、見えていない視界がある。それらを持ち寄る事で、よりよい結果を導き出そうとする事、それが『話し合い』である筈でした。

 

 でも今は『論破』がもてはやされる時代です。

 

 自分の正しさを相手にぶつけ、相手の粗探しをして矛盾を突き、相手の考えを潰して自分の考えを押し通す事ができる者が有能だという事になりました。そういう人物のもとに人が集まる様になりました。そして数多くの賛同者を得たその人が、『大きな声≒影響力』を手に入れる様になりました。

 

 極論すれば、SNSというのはそうした『声の大きさ』を持った人々の為の世界です。そこに自分の居場所はない様に思えます。自分の正しさを疑う事、相手の言葉の中に自分にはないものを見出そうとする事は、相手が発する鋭く硬い、自信に満ちた言葉、その『正しさ』によって柔らかい部分を突かれる事を覚悟しなければならないという事でもあります。

 

 それが嫌なら、柔らかな感受性を硬い殻で覆って行く様な生き方が求められるのかもしれません。よく言えば動じない、強い心を持つ事。悪く言えば、頑なな心のあり方を良しとする事。人為的に不感症になろうとする事。

 

 そしてその生き方は、『物語に向き合う』には合わないものの様に思えます。

 

 物語というのはそれが発表された時点で、開かれたものです。作者が描いた世界は読者によって受け止められ、様々に変化します。作者が描いた物語や価値観だけが『正解』ではない。ひとりひとりの読者の胸の中に、それぞれが想像する物語の世界があり、登場人物に対する思いがあり、その中から何を自分のものとして持ち帰るかが委ねられている。同じ本を読んだとしても、それによって何を思うかは読者によって異なる様に、正解などない、正しい答えなどないというのが物語の良さなのではないかと自分は思うのです。

 

 現実の世界でも、それは同じはずだと思って自分は生きて来ました。物事の正解は容易には見付からないし、仮に見付けたとしてもそれは刻一刻と形を変えて行く。そういう不確かな世界で生きている自分達にとって、様々な可能性を示唆し、気付きを与え、まだ到達していない視点から見える景色を与えてくれるものが物語である様に自分には思えます。

 

 そして、それと向き合えない自分がいるという事は、それだけ自分自身が変化を受け入れられず、自分自身が変わる事や、この世界が、社会が良い方向に変わり得るのだという可能性を信じられなくなっているという事なのかもしれないと思います。

 

 自分ごときが何をやっても、何を言っても無駄だという諦め。それに囚われた時に、物語が見せる可能性を信じる事は難しくなります。言ってしまえば全ての物語は、それが創作である限り絵空事です。そこで描かれる希望はご都合主義の産物かもしれない。嘘かもしれないし、本当は無価値なものかもしれない。

 

 でも、それを――物語を信じてみるという事が、『物語に向き合う』という事なのだとすれば、それは、この世界で物語と呼ばれているものは、すなわち『人の願い』でもあるという事ではないでしょうか。

 

 そして『願い』とは、『祈り』でもあります。

 

 何かを願う事を、祈る事を止めてしまっても良いのか。

 それが、自分が本を読む事を諦め切れない理由なのかもしれません。それは無駄な事かもしれないし、祈りは届く保証なんてないものです。でも、それでいい様な気もします。そもそも人が生きて行く事にしたって、成功が保証されているものではないのだし。

 

 と、ここまで書いたところで、結論には至らないのですが。

 

 だったら、自分はどうしたいんだろうという事を、今これから考えてみようと思います。自分の中に、もう一度物語に向き合ってみようという想いが持てるのかどうか。可能性というものをもう一度信じてみるつもりがあるのかどうか。正直まったく分かりません。

 

 SNSにしても、また帰って来るかもしれません。でも、もう二度と戻って来ないかもしれません。どっちに転ぶかは自分でも分かりません。もう諦めた方が楽な様にも思えるし、それでは寂しいとも思えます。だから少し、距離を置く事にしました。

 

 『さようなら』と言うのも『また今度』と言うのも何か違う気がします。約束できる事は何もないですし。だから何だか締まらないけれど、今日はここまでです。

 

 明日はどうなるかなんて、自分でも分かりません。

東京オリンピックとスケボーと『価値あるものだけが欲しい』社会

 久し振りに何か書こうと思いまして。ちなみに『正解』らしきものは自分でもまだ見えていませんので、これから先に書く事はあくまでも自分の『意見』だと思って下さい。

 

 さて、東京オリンピックパラリンピックも終わりましたね。『無事』終わったかどうかは意見が分かれる所だと思いますが。で、やっぱりスポーツの世界ではオリンピックの影響って凄いみたいで、「オリンピックを見て自分も始めました!」っていう方も結構いるらしいです。

 

 その中でも新種目のスケートボードでは男子ストリートで堀米雄斗選手が金メダル、更に女子ストリートでは西矢椛選手が金、中山楓奈選手が銅、そして女子パークで四十住さくら選手が金、開心那選手が銀と日本勢が大活躍しました。

 

sports.nhk.or.jp

 元々スケートボードがオリンピックの新種目に選ばれた辺りから、日本国内でも注目度は高くなり、スケボー関連の用品が品薄になる程売れ始めていたらしいのですが、メダルラッシュになった事で更に売れ行きは伸びた事でしょう。そういう力が、オリンピックにはあります。良くも悪くも。

 

 で、何を思ったか、自分も買ったんですスケボー。それも40代のオッサンが。まだ乗れないし、これから先乗れる様になるのかどうかも実際怪しいんですけど。

 

 自分はスケボーがオリンピックの種目になった事も知らなかったし、オリンピック自体はテレビ観戦すらしない程スポーツに興味がない人間です。コロナの件があろうがなかろうが、自国開催だろうが何だろうがその姿勢は変わりません。

 

 元々、中学の時は体育の成績で『1』を付けられるくらい運動神経もアレで、(筆記試験の点数だけではフォローできない程実技が壊滅的だと言われた)陸上競技から球技、水泳その他、スポーツと名が付くありとあらゆるものに対して苦手意識があり、実際まともにできた試しがないです。逆上がりも回れないし、泳いでいる姿なんか溺れているのかと勘違いされるレベルです。唯一、スキーの初心者コースだったら何とか滑れなくもない程度ですね。それも最後に行ったのは10年以上前だと思いますが。

 

 そういう人間がムラサキスポーツ等の通販でパーツ買ってスケボーを自分で組む(セットアップって言うらしいです)くらいにオリンピックは影響力があるんだぜ、という話かというと、実はこれが全く逆の話で、自分は未だにメダルを取った日本人選手の競技映像も見ていないし、世界レベルの選手の凄さみたいなものもよく分かってません。練習したからといって自分が乗れるようになるとも思ってません。

 

 じゃあ何で中年のオッサンが乗れもしないスケボーを触ってみようと思ったのかと言うと、なんとなく日本のスケーターのこれからと、オタク文化のこれからが重なって見えてしまったからです。何より、実際に自分で触ってもみないで外からあれこれ言うのはスケートボード文化に対して失礼ですから。

 

 さて、スケーターとオタクってそんなに共通点無いだろ、と思われるかもしれませんね。実際、ちょっとダボッとしたDickiesの874を履いて、足元はスケートボード用のシューズ(スケシュー)で固め、ラフなスタイルでストリートを活動の場にしているスケーターと、ちょっと前ならアキバ系とか言われた様な典型的インドア派のオタクってある意味対極に見えるかもしれません。でも実は、今はなき秋葉原の駅前広場が有名なスケボースポットだった事もありますし、何より自分には、こうしたスケボーやオタク文化に対する日本人(特に多数派の人々)の『都合の良い姿勢』と、それによる両者の扱われ方ってそっくりだなと思えるんです。

 

 ここからは順を追って説明します。

 自分がスケボーに興味を持ったきっかけは、『オリンピックで金メダルを取った事で、もうスケボーはストリートでは出来なくなるかもしれない』という話を聞いたからです。

 

 スケボーをする場所って基本的には『ストリート』と言われる位なので路上や公園、駐車場等なんですが、今は屋外、屋内ともにスケートボードパーク』と呼ばれる専用の場所も出来てきました。周囲をフェンスで囲ってあって、地面はコンクリート等で舗装され、中には競技用のセクションが置かれていて、ちゃんとヘルメットを着用した上で安全に配慮して遊んで下さい的な場所です。後はスノーボードで言うハーフパイプみたいなU字型のミニランプが置いてある所とか。

 

 パークが整備されるのは良い事です。それは業界内部にいる方々の地道な努力や、オリンピック種目になった事などが追い風になって進んで来た『良い流れ』です。スケーターが怪我をしたり、逆に歩行者等を怪我させたりする心配がない場所で練習ができる環境が全国に増えて行くのは望ましい事ですし、スポーツとしてのスケボーがより発展して行く上での拠点にもなります。ただ一方で、町中を自由に滑る移動手段としてのスケボーにとって、『パークの中だけがスケボーをして良い場所』になってしまう事は、自由を失う事でもあります。

 

 現在の日本の道路交通法的に言うと、スケボーは「必ずしも『公道禁止』ではない」というのが正解です。道路交通法第七十六条第4の三では、以下の様に記載されています。

 

第七十六条  何人も、信号機若しくは道路標識等又はこれらに類似する工作物若しくは物件をみだりに設置してはならない。

(中略)

4   何人も、次の各号に掲げる行為は、してはならない。

(中略)

三  交通のひんぱんな道路において、球戯をし、ローラー・スケートをし、又はこれらに類する行為をすること。

 

 この『交通のひんぱんな道路』というのが、どの程度の交通量の事を言うのかという問題もあり、過去の判例では『1時間あたり、原付30台、自転車30台、歩行者20名程度の場合は、交通のひんぱんな場所とはいえない』というものがあるそうですが、問題はそこではなく、スケボーは日本では『遊び道具』であって、自転車等の軽車両の様な『移動手段』としては認められていないという事です。そもそもブレーキも付いていない様なものを、公道を走行する移動手段として認められない、という事でしょう。逆に最近話題の電動キックスケーター等は、ナンバーを取得して原付バイクと同じ扱いにすれば合法的に公道を走る事もできますが、スケボーで公道を滑れば、明確な基準が存在しない以上、それを見た警察官の判断次第で即座に取り締まりの対象になるという事です。

 

 海外でスケボーが道路交通法的にどんな扱いを受けているのかは分かりませんが、『クルージング』という移動手段としてのスケボーの楽しみ方があり、クルーザーと呼ばれるクルージングに適したスケボーの形があります。中には『Penny(ペニー)』の様に、ビーチの脇の舗装路をサンダル履きとか、何なら素足で乗っちゃう様なスケボーもあります。

 

pennyskateboardsjapan.com

 

 ですが、日本で本当にスケボーをストリートでやろうと思ったら、それは常に「道交法違反の可能性がある中で、自己判断で乗る」事を意味します。だからオリンピックでメダルを取る様な選手は、過去にストリートで滑っていた動画があれば、今後炎上の火種になりかねないそれらの動画を消し、少なくとも日本国内ではもう公道でスケボーに乗らない様にするしかないんじゃない? というのが今の流れです。

 

 ちゃんとスポーツ化して、少しでも違法性がありそうな事はせず、周囲に迷惑を掛けたり批判されたりする事がない様に、パークの中で行儀よくしている事。自分ではスケボーをしない、スケーターではない大多数の人々がこれからのスケーターに求めて行くのはそういう事です。それを今ストリートにいるスケーター達がどう受け止めて行くかという事でもあります。

 

 そしてそれは、スケボーの文化だけではなく、オタク文化にも求められている事です。

 

 オリンピックに関連して、安倍前首相がマリオのコスプレで登場したり、オリンピック開会式のBGMがゲームミュージックだったり、『クールジャパン』とか言われる中で、アニメ、漫画、ゲーム等のオタク文化『日本が世界に誇る文化芸術』であるかの様に位置付けられ、積極的にPRされて来ました。日陰者がいつの間にか陽のあたる場所に引っ張り出された様な感じです。でも、そうしてクールジャパン的な事をアピールしたい人達が評価してくれるオタク文化は、全体から見ればほんの一部分でしかありません。

 

 例えばアニメ映画なら、宮崎アニメの様なもの。宮崎駿新海誠細田守、最近では庵野秀明監督作品もその中に入るかもしれませんが、そういう『陽のあたる場所に出しても恥ずかしくない作品』だけを世間は評価します。漫画でもゲームでもコスプレでも同じ事です。

 

 そこではエログロに代表される様な『困った奴ら』『存在しないもの』として扱われます。例えばコスプレなら、外国のオタクが日本のアニメキャラに扮して「日本文化大好き!」みたいに言ってくれるタイプのコスプレは『良いコスプレ』であり、国会議員や地方自治体の長もそれに乗っかって慣れないコスプレをしたりしますが、『性的なプレイ』の方に近いコスプレや、『軍装マニア』みたいな一歩間違えたら思想的にヤバそうな『困った奴ら』は歓迎されないどころか無視され、場合によっては批判されます。

 

 本来はそうした『困った奴ら』も含んでいるからこそ成り立って来た文化というものがある訳です。でも、世の中が求めているのは、そうした文化全体がある事によって生み出された『成果物』だけです。

 

 それはスケボーならスポーツとしてのスケボーであり、日本人選手のメダルであり、オタク文化ならその中でも対外的に恥ずかしくないものです。一方でストリートにいるスケーターは、恐らく今現在も「スケボーを持ち歩いていた」というだけで警察官から職務質問を受け、デッキテープを切る為のカッターナイフやスケボーをメンテナンスする為の工具を持っていた事が原因で銃刀法違反で取り締まられたり、公道でのクルージングを咎められたり、公園や駐車場からキックアウト(追い出される事)されたりしています。オタクに関しては言わずもがなです。

 

 自分は「それってズルくね?」って、ちょっと思ってしまう訳です。

 

「オリンピック、新種目のスケートボードで日本人選手が金メダルです!」って喜ぶ一方で、ストリートにいるスケーターを狙い撃ちする様に職質したり、「日本のオタク文化良いですね! 海外でも大人気ですね!」って言いながら、エログロでもBLみたいなものでも、対外的に恥ずかしいコンテンツに対する評価は無視し、むしろ規制したりする姿勢。それって外野から「美味しいところだけをつまみ食いされてる」みたいな、「文化全体から上澄みの綺麗な所だけ吸い取られてる」みたいなズルさを感じる訳です。

 

 じゃあ、文化全体を評価するならスケーターがどこを滑ってようが不問にしろとか、オタクやクリエイターが何してようが規制をするなと言いたいのかというと、そんなものはただの『無法地帯』な訳で、あり得ない事だとは思います。ただ、横から美味しい所だけをつまみ食いするんじゃなくて、そういう『ダメな部分』が社会の中である程度許容されて来たからこそ今現在の成果があるんだっていう事はもう少し知られても良いし、その文化の裾野の方に困った部分があって、そういった文化に馴染みがない人達との間ではお互いに配慮が必要だよねっていう前提の中で、スケーターやオタクが何もしてこなかった訳じゃないっていう事はもう少し認められて良いと思います。それが「スケボースポットとして使わせてもらってる場所のゴミくらいは自分達で拾っておこう」とか、「外に出すとひんしゅくを買うだろうコンテンツは内々で楽しむに留めておこう」といった、ささいな気遣いに過ぎないものだったとしても。

 

 どんな文化にもそれを育むのに必要な『土壌』があって、そこに種を蒔くから実がなる訳ですが、もしかするとその土壌の中には肥やしみたいに臭いものもあるかもしれない。でもそれを取り除いてしまった土から花が咲く事は多分無いし、ましてや金メダリストみたいな実がなる事は無いんだろうなと自分は思う訳です。だったら自分達も「臭かろうが何だろうが作物を実らせる為に我慢しろ」と開き直るのでもなく、「臭いものは臭いんだから近くに寄るな。実だけをよこせ」と言うのでもない互いの立ち位置を探して行かなければならないんじゃないかと思うのです。それがある特定の文化や社会全体を『豊かにする』という事なのではないでしょうか。

 

 残念ながら、現在の日本は『価値あるものだけが欲しい』社会になっているし、臭いものは遠ざけられ、目先の価値を産まないものは切り捨てられる社会になってしまっていますが、それを続けて行った先に、どれだけ価値あるものを実らせる土壌が残って行くかは微妙な所だと思います。

 必要なのは対話と協調と歩み寄り、そしてある種の寛容さであって、それがないのなら、後は緩やかにこれまでの遺産を食い潰しながら衰退して行く道があるだけではないでしょうか。

 

 これが現時点での『正解』ではない、自分の『意見』です。

 

 そして個人的には、せっかくスケボーを組んだ訳なので、せめてプッシュ(片足をスケボーの上に載せて、反対の足で地面を蹴って前に進むやつ)はできる様にしたいなと思います。今はデッキの上に立つだけでもちょっと怪しいレベルですが。

 

 どちらも、今後の課題は山積の様です。

小山田圭吾氏の『障がい者いじめ』問題と、これからの障がい者の自立支援について

 

kuroinu2501.hatenablog.com

  先日、こんな記事を書いたばかりですが、今度は東京オリンピックの開会式に作曲担当として参加しているミュージシャンの小山田圭吾氏が、過去に雑誌のインタビューで障がい者をいじめていた』事を告白していた事が報じられ、その内容からいじめに対する反省や謝罪の意志が読み取れなかった事から炎上、その後Cornelius名義の公式Twitterアカウントで謝罪という事になったそうですね。

 

 

 

 この『いじめ』という言葉は厄介で、「たとえ善悪の分別がない未熟な子どもがした事だとしても、その悪質さを考えれば『傷害罪』『殺人未遂』等の、もっと重い言葉で伝えるべきだ」という意見もあります。いじめ以外にも「セクハラじゃなくて性的暴行だろ」とか、繰り返し語られたりもします。自分もどうするべきか悩みましたが、ここではあえて『いじめ』と呼ぶ事にします。

 

 小山田氏の『いじめ』は、障がい者だけではなく、朝鮮学校から転校してきたクラスメイトに対する『いじり』(というか嘲笑)もあった様で、それだって相手からしたらいじめの一種だったかもしれないと思う訳です。その詳細を記した記事を読んだのですが、正直暗い気持ちになりました。

 

 

koritsumuen.hatenablog.com

koritsumuen.hatenablog.com

  今現在、小山田氏本人が、自分の過去のいじめ行為を反省しているのかどうか。それはTwitter上の謝罪文を読んだだけでは分かりません。今回炎上したから急いで形だけ謝ったのか、それとも過去の雑誌インタビューの時点では笑い話として語ってしまった自身のいじめ行為を、今は心から申し訳ないと思っているのか。そんな事は直接彼を知る人でなければ判断ができないでしょう。

 また、オリンピック・パラリンピックに関わる人として、こうした経歴を持っている人物を起用する事が容認されるのかどうか。それもまた、彼に仕事を依頼した責任者の判断です。

 

 自分は彼の仕事や音楽については全く知りません。Corneliusの音楽をちゃんと聴いた事がないし、問題の雑誌インタビューが載った90年代のサブカルチャーや音楽シーンに詳しい訳でもない。だから彼が今オリンピック開会式に使用される楽曲に関わる事が許されるべきかという判断はできない気がしますし、「90年代のサブカルには、ああいういじめを武勇伝やエンタメの様に語ってしまう空気があったよね(だから仕方がない事だよね)」という様な雑な振り返り方もできないと思います。

 

 確かなのは、きっと当時いじめられた側の人達は、何十年経っても自分がされた事を忘れる事はないだろうという事です。自分をいじめた相手を許すとか、許さないとかいう以前の問題として。大便を食べさせられるとか、自慰を強制される様ないじめを忘れるのは無理だと思います。

 

 その上で今、社会福祉法人障がい者福祉の仕事をしている自分から見て、この件で何か言うべき事があるだろうかと考えました。

 

 真っ先に思い付くのは、小山田氏のいじめ行為を非難する事です。

 

 養護学校に通うダウン症の人達の顔付きを見て笑いものにしたり、跳び箱の中に閉じ込めたり、障がい故の行動を観察して面白がったり、下半身を露出させて校内を歩かせたり、そういったいじめ行為をする事はもちろん、大人になってから雑誌のインタビューで当時の事を笑って語れる様な神経、また周囲も同じ様に笑ってそれを聞き、雑誌記事にしてしまえる様な神経は、非難されて当然だと思います。

 

 でも一方で、自分自身の過去を振り返った時、そういったいじめ行為を積極的に行う事はなかったとしても、例えば誰かが同じ様ないじめをしているのを『横で見ていたけれど止める事ができなかった』という事を思い出したりもする訳です。学校でも、職場でも。いじめって何も未熟な子ども時代にだけある問題じゃないから。

 

 そういう自分が、自分自身の至らなさを棚上げして小山田氏を批判しても良いのかという事を考える時、ただ彼を非難してこの問題を終わらせてしまう事に何の意味があるのかと疑問に思うのです。そんな事は、自分がやらなくても既に多くの人達がやっているし、今から自分がその環の中に入らなくてもいいんじゃないかと思います。それは結局、自分自身が溜飲を下げる事にしか役立たないでしょう。

 

 誰かを非難するなら、それは自己反省とセットであって欲しい。

 少なくとも自分自身は、そうしようと思います。

 

 その上で、福祉の仕事をしている自分がこの問題を考える上で付け加えるべき事は、障がい者の人権』障がい者の地域移行』についての問題だろうと思います。簡単に言えば、自分達の社会は障がい者、特に知的障がい者を地域の一員として受け入れ、共に暮らして行くつもりが本当にあるのだろうかという事です。

 

 自分の勤務先は、障害者支援施設です。そこでは施設入所支援という福祉サービスを提供しています。詳しくない方にも伝わる様に言い換えるなら、老人ホームの様に入所者が施設の中でずっと暮らして行くタイプの福祉サービスです。

 

 施設入所支援を利用する障がい者は、同じ知的障がい者の中でも重度の方々です。

 障がい福祉サービスを利用するには障害支援区分という等級を市町村に認定してもらう必要があるのですが、区分1から区分6まである障害支援区分の中で、5や6といった最重度の区分に相当する方々が施設で暮らす事になります。

 

 彼等の多くは親元で家族と一緒に暮らし続ける事が困難です。

 自分が知る中で、彼等が具体的にどんな方々かという事は守秘義務上書けないのですが、一般論として書くならば、言葉による意思疎通が困難だったり、感情のコントロールが難しく自傷や他害の傾向があったり、自発的に食事や排泄ができなかったり、異食(本来食べられないものを口にしてしまう事)があったりと、24時間の見守りが必要な方々です。そうした方々の入所生活には、もちろん本人の意志や家族の同意が必要ですが、仮に同意があったとしても、それは広義での『人権の制限』にあたるとも言えます。それがどれだけ本人にとって必要な事だとしても。

 

 たとえば勝手に施設から外出する事はできません。他にも食事の時間、日中活動のスケジュール、入浴や排泄、就寝や起床の時間は施設が管理する事になります。お金の使い方も本人に任せてしまうと自己管理ができずに全て使い果たしてしまう等の問題がある為、金銭管理も細かく行います。

 

 それは必要な事ですが、彼等が本来(健常者であれば)自由に行使できる権利を一部制限しているという事でもあります。ですから現在、政府は『障がい者の自立』を目指す方向に進んでいます。具体的には施設入所者の中で、施設を出て地域の中で暮らせる見込みがある人達を、積極的に『地域移行』させて行こうと試みています。

 

 グループホームという言葉を聞いた事があるでしょうか?

 

 認知症の高齢者や、知的障がい者が数名で共同生活をする小規模施設の事です。世話係の職員がいるシェアハウスを想像すると良いかもしれません。

 世話人などと呼ばれる職員はいますが、日中のみの勤務で夜間は世話人が不在なグループホームもあり、入所施設に比べると行動の自由度も高くなります。グループホームで暮らす方々は、そこから日中活動系のサービスを提供する施設に通ったり、就職して通勤したりします。地域の人とのつながりもでき、交流しながら自立生活をする事になります。

 

 これは政府が推進する方向性です。よりご利用者の権利(人権)に対する制約が少なく、彼等が自立して暮らせる場所を増やして行きたい。でもどうでしょう。

 

 自分達には、彼等障がい者を地域の中で受け入れるつもりがありますか?

 

 今回のいじめ問題のように、障がい者を笑い者にしたり、痛めつけて面白がったりする気持ちが自分達の中にあるのだとしたら、政府=国がどんなに旗振り役をしたとしても、障がい者の地域移行や自立など夢のまた夢です。逆にそんな事はしない方がいい。地域の中で受け入れてもらえる事を信じて送り出した人が、心ない健常者にいじめられ傷付けられ、忘れられないダメージを負わされるのだとしたら、最初から地域移行になんて挑戦しない方がましです。

 

 ただでさえ、既に長年施設入所で暮らして来た方が地域移行に挑戦するのはハードルが高く、成功率が低いのが現状です。生活環境や、一緒に暮らす人達が変わる事で感情のコントロールが出来ずに他害等の問題を起こしたり、人間関係のトラブルが解決できずに入所施設に出戻りしなければならなくなったりと、失敗した地域移行の話をよく耳にします。

 

 でも地域移行の失敗は、障がい者本人だけの問題なんでしょうか?

 

 確かに入所施設で暮らす様な重度知的障がい者は、地域の中で自立して暮らす上での様々な問題を抱えています。彼等は自分達健常者がそうである様に無垢ではないし、悪意はないかもしれないけれど法を犯す事もあります。窃盗や暴行といった触法行為を繰り返してしまう人もいます。知的障がい者と接するという事は、健常者側からの善意の押し付けでカタがつく様な簡単な問題ではありません。不快にさせられる事もある。期待を裏切られる事もある。傷付けられる事だってある。それは事実です。

 

 でも一方で、彼等が地域で受け入れられないのは、自分達の心のどこかに、過去にいじめ行為を行っていた頃の小山田氏の様な部分があって、障がい者を気味悪がったり、一緒になんて暮らせない、あんな奴らは仲間じゃないと思ったり、できればどこか自分達の目に触れない所で、地域に出て来ない様に管理されて暮らしていて欲しいと願ったりしているせいなんじゃないか。自分達もまた程度の差はあるにしても小山田氏に近い所に立っているんじゃないか。そんな気もします。

 

 実際、以前にヤフー知恵袋か何かで目にした書き込みには『障がい者が外食をしている所に居合わせると、食事風景が騒がしく、食べ方も汚い。見ていると食欲を無くすので、意味のない外食は止めて施設から出て来ないでくれ』という主旨のものがありました。書き込んだ人は丁寧に『これは差別ではないんですが』と書いていた気がしますが、『それを差別と言うんだよ』という正論を返したところで何になりますか? 障がい者と同じ場所で食事をするなんてごめんだね、という健常者の気持ちを変える事ができますか?

 

 だから自分は思うんですが、自分達が小山田氏の障がい者いじめを批判する時、その批判に使ったエネルギーや怒りの100分の1でいいから、それを自分自身にも向けてみて欲しいと思うんです。それは当然不快です。場合によっては痛い事です。でもそうする事でしか変えて行けない現状というものがあります。そしてそうやって自分達が現状を少しでも変えてくれる事を、彼等障がい者は期待して待ってくれているのだと思います。その歩みがどんなに遅くても。遅々として進まなくても。

 

 いままでもずっと。これから先もきっと。

 

 その気持ちに、自分達は応えられるでしょうか?

『HINOMARU』の野田洋次郎と『MOTHER』の長渕剛

 何だかRADWIMPSのボーカルの野田洋次郎さんが炎上しているらしくて。

 

 自分は『君の名は。』や『天気の子』といった映画からRADWIMPSの曲を聴き始めた様な奴なので、ちゃんとしたファンを名乗るつもりはあまりないのだけれど、それでも「ちょっとその批判のやり方は嫌だな」という部分もあって、もやもやする気持ちを整理する為に文章化しておこうと思いました。

 

 今回の炎上は2種類あって、ひとつは彼が『ROCK IN JAPAN FESTIVAL 2021』(以下ロッキン)の開催中止に対して出したコメントに対する批判。もうひとつはそのコメントを出した当の本人が自身の誕生日会で友人らと夜通し飲み歩いていたらしいという事に対する批判。まあ、それらの批判が出るのもわからなくはないですが。

 

 自分が嫌だなと思ったのは前者で、その批判のやり方がちょっと意地悪だなというか、最近言われている『分断』って、きっとこういう悪気のない、ともすれば潔癖症的な拒絶から生まれているんじゃないかと思った訳です。

 

 野田さんがロッキンの中止に対してコメントを出した時の批判は、簡単に言い換えれば「『HINOMARU』を歌っていた様な奴が、今更こっち側で政府批判に混ざってんじゃねぇよ」というものでした。

 

 『HINOMARU』という曲は、その曲名と歌詞のせいもあって、発表当時に『愛国ソング』とか『軍歌みたい』とか散々批判された曲で、作詞作曲を野田さん自身が手掛けている事もあって、野田さん本人の歴史認識や価値観を問題視するネット記事が数多く書かれました。今回の批判もそれが前提としてあって、HINOMARUの件を許していない人達は、時にはHINOMARUの歌詞を引用しながら「あんなに勇ましい事を言っていた奴が、今更何なんだ」という批判をしている訳です。

 

 自分からすれば、その批判は分かる様な気もする一方で、どこか腑に落ちないものでもありました。それはなぜかというと、『人間とは多面体である』という事が無視されている様に思えるからです。

 

 自分は過去に仏教美術を専攻していて、彫刻について学ぶ機会があったのですが、その時の感覚で言うと、彫刻の様な立体物を模刻しようとする時、ある一方向からだけ見た印象で全てを把握するのは不可能です。正面から見た時。真横から見た時。斜めから見た時。その他あらゆる方向から対象を見た時、その印象は全て違います。そして立体を、昔のゲームでもよく見た様な荒いポリゴンの集合体の様にとらえると、その面と面の繋がり方や、それらによって構成される全体的な量感が、その彫刻自体を成立させる上でとても大事だという事に気付かされます。

 

 自分の感覚からすると、これもよく言われる事ですが「人間もまた彫刻と同じ様に多面体である」という事になります。精神的にも、その人の心のあり方としても。

 

 自分達は他者とコミュニケーションを取る時に、どうしても『自分の立ち位置から見える相手の一面』を、相手の全てであるとか、本質であると思い込みがちです。でもそれは相手の心という立体を構成している数多くの面のひとつが、今自分の方を向いているという事に過ぎず、自分が理解したと思っている相手の性格や価値観は、その人の本質の、ほんの一部分に過ぎないという事ではないでしょうか。

 

 今回の件で言えば「『HINOMARU』を歌う野田洋次郎」も「ロッキンの中止にやりきれないものを感じている野田洋次郎」も「友人と夜通し飲み歩く野田洋次郎」も、全部が彼である事は間違いないけれど、そのどれかが彼の全てではないという事です。

 

 だから自分達は、彼のダメな部分(とあえて書きますが)を見て、がっかりしたり批判したくなったり攻撃したくなったりするかもしれないし、ある意味それが当然ではあるけれど、例えば「あいつは『HINOMARU』を歌っていた奴」という過去のわだかまりをいつまでも持ち越して、今の彼が発する言葉を全て聞く価値がないものとする様な態度を取るのはどうなんだろうと思います。少なくとも自分は。

 

 人間って、そんなにどこから見ても矛盾のない、綺麗に整った立体ではないものですよ。

 

 皆どこか歪んでいて、他人から見たら褒められたものじゃない一面を持っている。そしてそれを、相手から隠して、なるべく綺麗な面を他人に向けておこうと思ったりもする。後は友人に対してなら、ちょっと崩れた部分を見せてもいいかなとかね。

 

 ――と、ここまでが真面目な話なんですが、真面目な話だけでも何なので、ちょっと自分と長渕剛の話をします。

 

 先に書いた様に、自分は映画からRADWIMPSに入る様なミーハーなんですが、人生最初に買ったカセットテープ(CDですらない時代!)は何だったかというと長渕剛の『JEEP』でした。なぜかというと、当時親しかった年上のお兄さん的な人が自分を乗せた車内でかけていたのが長渕剛だったからです。自分は小学生だったか中学生だったか、まあその頃ですね。

 

 で、『JEEP』と、その次に『JAPAN』という2つのアルバムを買って、それしか手持ちのカセットテープが無いから延々とそれを聴いていました。今にして思えば何でそんなハマり方をしたのか全く分からないんですが、とにかくそのおかげで、今でも『JEEP』と『JAPAN』の収録曲はほぼ何も見ずに歌う事ができます。自分はカラオケに行く趣味がないので、主に会社等での付き合いで行く程度なんですが、自分の様な「休み時間も教室の自分の席で黙々と本を読んでいたっぽいキャラ」がいきなり飲み会の席で長渕剛を歌い出すと、大抵の人は驚いてくれるのでちょっと面白いです。

 

 自分の長渕熱は『JEEP』と『JAPAN』だけで燃え尽きてしまったので、こちらもファンを名乗る程ではないんですが、今思えば彼も大麻取締法違反での現行犯逮捕等、色々と騒動を起こした人でもありました。かと思えば2017年には福島県立小高産業技術高等学校の校歌を作曲していたりもします。(作詞は柳美里さん)

 

 その曲もRADWIMPSの『HINOMARU』なんていうレベルのものではなく、2007年のアルバム『Come on Stand up!』の収録曲には、もっと直球の『神風特攻隊』という歌があります。個人的には『HINOMARU』が炎上するなら『神風特攻隊』は長渕剛本人ごと溶鉱炉に投げ込まれても文句が言えないレベルの曲だと思いますが、不思議と大炎上したという話は聞かなかった気がしますね。まあ当時はTwitter等のSNSも今ほど普及していなかったかもしれないし、単に自分が覚えていないだけかもしれませんが。

 

 何が言いたいかというと、話は少し戻るんですが『神風特攻隊』だけを聴いて、「長渕剛ってこんな人だったんだ!」的な炎上のしかたをする可能性はあって、それが今の野田洋次郎に起こっている事だと思うんです。でも一方で、自分が『JEEP』と『JAPAN』を狂った様に聴いていた頃の長渕剛だけを見ても、それは多分彼等のほんの一面でしかないんだろうなと分かるし、あえて酷い事を言えば、人間っていうのはもっとめちゃくちゃだっていう事です。

 

 例えば長渕剛は『親知らず』や『お家へかえろう』では日本の対米従属や弱腰外交を批判して、国会議事堂にしょんべんひっかけてやろうみたいな事を言う訳です。かと思えば先に挙げた様に『神風特攻隊』の様な曲も歌う。もっと言えば『I LOVE YOU』は今の時代にフェミニズムを推進して行こうという立場の人達が聴いたらそのマッチョさに卒倒するか怒り狂いそうだし、かと思えば『女よ、GOMEN』では「俺にはやっぱりお前しかいない」みたいな「女性に縋り付く男」的な弱さを見せたりもする。

 

 それで、『JAPAN』というアルバムは『MOTHER』という曲で終わるんですが、それはもう「いくつになっても母親=母性を求める男」みたいな壊れ物としての男性像と、母親に対する深い愛情がぐちゃぐちゃになった様な曲で、世間が長渕剛という人に対してまず思い浮かべる様なマッチョな男らしさや勇ましさは欠片もなく、もうすぐ訪れるであろう母親の死という避けられない現実を前に、まるで子どもに戻ってしまったかの様な男の姿が描かれるんですよね。聴く人によってはマザコンの様に思うかもしれない。

 

 そんな様々な『面』の集合体が、長渕剛というひとりの歌手を形作っている。

 それらの面のどれかひとつが彼の全てを表しているという事ではなく。

 

 多分、これからも彼の一面を見て全てを語る人はいるだろうと思うんです。映画『男たちの大和』の主題歌だった『CLOSE YOUR EYES』や、『神風特攻隊』の様な愛国ソングを歌う奴はダメだとか、そんな奴に高校の校歌の作曲なんてやらせて良かったのかとか、いくらでも言えますから。もっと言えば「結局は大麻で捕まった様な奴だろう」とか、多分これから先も一生言われるんでしょう。もしかすると亡くなってからも言われ続けるかもしれない。そしてそれは否定できないし、拒否できない。長渕剛という人間のある一面だけを見れば、それは正しい批判だから。

 

 でも自分の中には『MOTHER』を歌っていた長渕剛もいて、逆に言うと最後に熱心に聴いた曲が『MOTHER』だったせいかもしれないけれど、彼を全否定する気にはなれないという事です。

 

 話を野田洋次郎さんに戻せば、彼はもしかするとこの先も一生『HINOMARU』を歌った奴と言われ続け、ロッキンの中止に対して出したコメントもそのせいで価値がないものとされ、夜通し飲み歩いていた事を批判され、一部の人からはもう二度と信用されないかもしれない。自分はそうした批判が出る事や、批判する人を否定するつもりはないけれど、そういう自分達の『潔癖症な部分』が、相互理解の壁になってしまう事はあるんだろうと思います。

 

 「正しい事を言いたいなら、全ての面で正しくあれ」と言う事は、どこかで「自分達の仲間として認められたいなら、異論や反対意見なんてひとつも許さないからな」という狭量さに結び付いて行く気がするんですよ。他にも「誰かに助けて欲しいなら、助けてもらえるだけの努力をして、その資格を得てからにしろ」という様な自己責任論が導き出されたりもする。

 

 だから自分達は、誰かが正しくない行いをした(と判断された)時に、「それは間違っているんじゃないか」と批判する事は当然としても、その一方ではどこか「人間というのは正しさだけで作られてはいない」という事を認めるゆとり=許しに繋がる感情を持っておくべきなんじゃないかと思います。なぜって自分自身、常に正しく生きる事は不可能だからです。自分という立体は、どの面から見られても正しさを認められる様な、整った形をしていないからです。

 

 そしてつまるところ、その自分という立体が抱えている『歪み』を、『人間らしさ』や『自分らしさ』と呼ぶのかもしれない。今、自分はそう思います。

 

 これを読んでくれたあなたは、どうですか?

あなたも『執着』を捨てて強キャラになろう! 『当たり判定』と仏教

 SNS上でも実際のやりとりでも思う事なんですが、最近『当たり判定』が大きい人が増えたなって感じるんです。いきなり何の話かって言うと、また最終的には仏教の話になるんですけど。

 

 これだけだと「こいつまた何かおかしな事を言い始めたぞ」っていう感じなので、まず『当たり判定』って何なのかについてちゃんと説明したいのですが、これ本来はゲーム用語なので、ゲームに馴染みがない人は聞いた事が無いかもしれません。

 

 『当たり判定』は衝突判定やヒットボックスと言われる事もありますが、「この場所に攻撃が命中したら、当たった事になるよ」という範囲の事です。厳密にはもう少し幅広い定義ですが、ここでは割愛します。

 

 格闘ゲームでも、シューティングゲームでも、最近よく見る、プレイヤーがお互い銃で撃ち合うサバイバルゲーム的なFPSというジャンルのゲームでも、自分や相手が動かしているキャラクターには全てこの『当たり判定』が設定されています。人型のキャラクターなら、大体は外見の輪郭線よりも少し内側に設定されている事が多い様です。

 

 実在の人間だと、この当たり判定って皮膚の表面から内側になると思います。実際に体がありますし、叩かれたら痛いと感じる痛覚や触覚は皮膚の表面にあるので。ただ、ゲーム上のキャラクターは架空の存在なので、空っぽな外見の内側に別途『当たり判定』を設定してあげないといけないんですね。当たり判定が無いと相手の攻撃が体をすり抜けたり、壁を素通りできたりしてしまいます。

 

 この当たり判定の設定は凄く繊細な調整が必要です。例えば「体の輪郭線から当たり判定がはみ出している」と、外見上は攻撃を避けた筈なのに、何もない空間に攻撃が当たってダメージを受けるという理不尽な処理が発生してしまいます。

 こういう当たり判定の調整に不具合があるゲームは「このゲーム当たり判定がガバガバなんだけど」などとプレイヤーからの不満が出てしまいます。ここまでが当たり判定の説明というか、前置きです。

 

 では次に、現実の世界で『当たり判定が大きい人』というのは何を言っているの? という話になるんですが、もちろん体の外側に物理的な当たり判定がはみ出している人なんていないので、これは精神的な話です。仏教的な話でもあります。

 

 何でゲームの話が仏教と関連するのかというと、この『当たり判定』という言葉を理解すると、仏教でよく言われる「『執着』を捨てる」という生き方が理解しやすくなるのではないかと思ったからです。

 

 仏教用語というのは難しく、本を読んで理解したつもりでも、それを肌感覚で自分のものにするという事がなかなか難しい様に思います。自分も仏教学部を卒業しましたが、「執着を捨てなさい」と言われても具体的に何をどうすればいいのか悩んでしまいます。ちょっと前に流行った断捨離をすればいいという訳でもないでしょう。断捨離という言葉自体も、最初はヨガの用語として紹介されたと聞きますが、今はすっかり整理整頓の用語になってしまいましたね。でも身の回りに溢れる余計なものを捨てる事やそれを更に突き詰めてミニマリストになる事と、執着を捨てるという事は一見近そうに見えて、何だか違う様にも思えます。

 

 では『執着』とは何でしょうか?

 なぜ『執着』を捨てる事が求められるのでしょうか?

 

 自分達は、自分自身が思っている以上に色々なものに対して『執着』を持っていますが、ここでは『執着を持つ事』を『自分の当たり判定が大きくなる事』だと想像しながら考えて行きます。

 

 唐突ですが、これを読んで頂いているあなたには『好きなもの』がありますか?

 

 好きなもの、応援しているもの、『推し』と言われる様な誰か、あるいは何か。当然あると思います。自分達は、そうした『自分にとって大事なもの』が批判されたり否定されたりすると、まるで『自分自身が傷付けられた』かの様に怒り、悲しみ、心にダメージを受けます。

 

 思い浮かべてみて下さい。好きな野球やサッカーのチーム、いつも聴いているミュージシャン、お気に入りの本、家族や子ども、他にもまだまだあるでしょう。それが否定されたら、悪口を言われたら、あなたは傷付くのではないでしょうか? 自分自身がそうされたのと同じ様に。

 

 また唐突に聞きます。それはなぜですか?

 

 好きな野球チームはあなた自身ですか?

 好きなミュージシャンや、本や、家族や子どもはあなた自身ですか?

 違います。どんなに好きでも大事でも、それは本来、あなた自身ではありません。

 自分に向けられた批判や否定ではない筈の言葉に、あなたが傷付いたり怒ったり悲しんだりする必要はない筈です。でも、自分達は実際にダメージを受けてしまう。なぜか。

 

 それはあなたの、そして自分達の誰もが持っている執着が、様々なものを自分自身の中に『自分と同じくらい大事なもの』として取り込んでしまっているからです。自分達は必ずしも等身大の自分だけで生きている訳ではなくて、様々な属性や主義主張、価値観を自分と同じくらい大事なものとして無意識に取り込んで行くんですね。それは支えになってくれる事もあるけれど、一方では自意識を肥大化させてしまう事になります。守るべきものや譲れないものが増える事で、自分達は風船を膨らませる様に自分自身の当たり判定も大きくしてしまう。そうするとどうなるか。

 

 自分達は傷付く必要のない場面で傷付き、怒る必要のない所で怒り、悲しむ必要のない時に悲しみ、場合によっては自分を『攻撃した』相手を憎んで反撃しようとする様になって行きます。意見や価値観の異なる相手に対して攻撃的になって行くんですね。自分を守る為に。

 

 例えば最近、『主語が大きい』という批判の言葉をよく耳にする様になりました。

 馴染みが無い人もいると思います。比較的新しい言葉なんじゃないかと思います。

 

 例を挙げると、ある女性が「これだから男は駄目だ!」と言ったとします。フェミニズムや性差の問題を論じる立場から、現在の男性や男性社会が抱えている問題を指摘する時などによく言われる事です。(当然男性から女性へ言う事もありますが、自分は男性なのでこれを例とします)

 男性である自分は、同性が批判されていると自分も批判されている様な気がして、何となく嫌な気分になります。そして『主語の大きな批判は止めて欲しい』と言います。要するに、「自分を巻き込まないで!」という訳です。もっと乱暴に「主語が大きいぞ気を付けろ!」と言う人もいます。

 

 でもこれって、本当に『主語が大きい=発言者の問題』なんでしょうか?

 自分の肥大化した当たり判定が体からはみ出している事が問題だったりしませんか?

 

 上の例で言えば、『自分は男である』というのは正しいとして、じゃあそれをひっくり返して『男は自分である』というのは正しいでしょうか? それは『自分=男 男=自分』という風に、前後を入れ替えても成立する数式の様なものではない気がします。

 

 だから本来なら、男性のあり方が批判される時、自分自身が批判された様に感情的に受け止めなくても良い筈です。でも『男である自分』というものが自分にとってのプライドや自信を支える上で手放せないものになってしまっている時、自分達は男性である事に対する執着にとらわれ、『男である自分』という立場から離れてものを考える事ができなくなります。するとどうなるか。男性(の一部分)を批判する言葉が全部自分自身への批判になって突き刺さってきます。肥大化した当たり判定が、冷静に相手の意見を受け止める事を邪魔する様になる訳です。

 

 これは性別の差だけではなくて、人種や国籍や思想、価値観といったものでも同じです。

 男である事。日本人である事。それらに執着しすぎる事で、例えば女性の意見や諸外国の人々からの意見を素直に受け止める事が出来ないのだとすれば、一度それらの執着を捨てて身軽になってみる――自分の当たり判定を小さくするべきではないでしょうか。

 

 近年問題になっているナショナリズムレイシズムの台頭もまた、自分達が自らの所属する国家や民族といったものを自尊心の拠り所として、それにすがり付いてしまうという執着を捨てられない事によって起こっている事の様にも思えます。日本の問題点を指摘される事は自分自身を批判される事であり、日本人を侮辱される事は自分自身を侮辱されるのと同じだという『肥大化した自意識=当たり判定』の問題です。そして自分達もまた同じ様に、相手にやり返す。自分を批判して来た(と思い込んだ)相手を、相手方の属性でくくって、大きな主語の中に押し込んで批判する様になる。「~人は(~国は・異性は・世代は)ろくなものじゃない」等と言って。

 

 SNSを見渡せば、常に誰かが言い争いをしています。とても冷静な議論とは言えない、罵詈雑言の類です。そんな事が起こってしまうのも、この肥大化した自意識=肥大化したお互いの当たり判定のせいかもしれません。だって自分の事を殴っている相手と冷静に話なんてできないじゃないですか。でもその『相手に殴られた』っていう受け止め方自体が、自分の思い込みかもしれない。これはそういう話です。

 

 仏教が執着を捨てる事を求めるのは、こうした思い込みによって自分自身や相手が不必要に傷付くのを避ける為でもあるのではないかと思うのです。執着を捨て、自分の当たり判定を小さくする事ができれば、仮に本当に自分自身を狙って投げ付けられた悪意も、動じずすり抜けられる様になるかもしれません。何せ当たり判定が無い所には、攻撃が当たりませんから。それはゲームだったらチート(データの不正改造)ですが、現実を生きる自分達の気持ちの持ち方としてはアリだと思います。

 

 じゃあどうやって自分自身の肥大化した当たり判定を等身大の自分に戻して行くか。そしてできるなら更に小さくして行くかという事なんですが、それにはやはり『自分』というものの範囲、大きさを見つめ直す事なのかなと思います。難しいですが。

 

 例えば自分は男性であり中年であり日本人であり黄色人種であり独身であり福祉関係者であり――とどこまでも自分の属性を列挙して行く事ができますが、『その逆が自分自身な訳ではない』とわきまえる事。社会に飛び交う批判や悪意を、正面から受け止めない様に心掛け、また自分自身も相手を大きなくくりで批判しない事。そうする事がゲームで言う『強キャラ』(強い、優れたキャラクター)になる為の道なのかもしれませんね。そして強さとは、優しさに繋がるものです。

 

 「さあ、あなたも執着を捨てて強キャラになってみませんか?」

 

 こんな風に言うと怪しい勧誘にしか聞こえませんが、何だかちょっと心の持ち方が変えられそうな気がします。少なくとも、自分は。

障がい者支援施設職員の目線から『「利他」とは何か』を読む

 

 

 本著『「利他」とは何か』は、5人の著者による共著であり、彼等がそれぞれの研究分野や専門性を活かして『利他』という行為・概念を紐解いて行こうという本になっています。

 

 自分は仏教学部で学んだので、『利他』という言葉をどこか仏教用語の様に受け止めてしまう部分があるのですが、この『利他』という言葉の意味や意義を再確認する事は、現代の日本においても重要な意味を持つ事になりそうです。

 

 なぜかと言えば、『利他』は今死にかけているからです。

 

 では、そもそも『利他』とは何か。

 それは本著の題名にもなるくらいですから、一言で言い表せるものではないでしょう。ですが、何となくのイメージとして『自分の為ではなく、他者の為に尽くす事』という印象を持つ方が多いのではないでしょうか。

 

 大乗仏教には『利他』と対を成す言葉として『自利(じり)』というものがあり、『自利利他』という言い方をされます。『自利』というのは、自らが修行等をして努力する事、またそれによって得た功徳を自らの為に受け取る事であり、利他とは他者を救済する為に自らの力を使う事です。

 

 この『自利』と『利他』は相反するものではなく、両方を調和させて行くべきだというのが大乗仏教における考え方です。逆に自分の利益ばかりを追求する浅ましい状態は『我利我利(がりがり)』『我利我利亡者』等と言って批判されます。

 

 自分の為にする事と、他者の為にする事。自利と利他。それは綺麗に切り分けられるものではないのだろうと思います。自分達は日々の暮らしの中で、そこまで『我利我利』に徹している訳ではないですし、「これは自分の為だ」と言いながら、結局それが誰かの為になっているという事もあります。逆に「これはあなたの為なんだから」という善意のお仕着せが相手にとって負担になってしまう事もあります。

 

 最初に言ってしまえば、自分達は不完全でいい加減な生き物です。不安定で、ふらふらしている。理路整然とした論理で生きている訳ではないし、常に正しい規範に則って生きている訳でもない。

 

 そういう『いい加減さ』が、利他という行為を分かり難いものにしている部分もあります。でも、自分達はそれでもこの『利他』という言葉の意味を再確認すべき時期に来ているのかもしれません。それは冒頭で述べた通り、『利他』は今死にかけているからです。具体的に言えば、『自利利他』のバランスが大きく崩れだしている。相手が差し出す利他を受け取る為には、受け手側に『義務』や『権利』が必要だという社会になってきている。少なくとも自分にはその様に思えます。

 

 受け手側が、利他を受ける為の『権利』を持っている事を証明しなければならないとすれば、それは『利他の死』ではないでしょうか。

 

 この事について考える上での手掛かりを本著は示しています。

 本著の冒頭で、伊藤亜紗氏は『合理的利他主義『効果的利他主義という二種類の利他主義について解説してくれています。

 

 まず『合理的利他主義』とは「自分にとっての利益」を行為の動機とする利他主義です。

 例えばコロナ禍の中では、他者の感染を防ぐ事が自分自身の感染を防ぐ行為になります。この様に、他者の為にした事が、自分の利益になって帰って来るという事を前提とした利他主義が『合理的利他主義』です。自らの利益を期待する利己主義と、その利己主義の戦略のひとつとして行われる利他的行為が連結されて地続きになっている。自らを顧みず、どこまでも他者に尽くすという、言ってみれば『自己犠牲』を前提とした利他主義ではなく、自己の利益となる事を見込んで利他を行う。ある意味自分に正直で、受け入れられ易い考え方かもしれません。

 

 次に『効果的利他主義』ですが、こちらは哲学者のピーター・シンガー氏が提唱している利他主義であり、その原則は本著で引用されている通り『私たちは、自分にできる<いちばんたくさんのいいこと>をしなければならない』というものです。

 

 本著で伊藤氏が示す様に、<いちばんたくさんのいいこと>とは『最大多数の最大幸福』であり、つまりは功利主義です。功利主義利他主義が連結されるというのはなかなか衝撃的かもしれませんが、『効果的利他主義』は更に効果・効率といったものを徹底的に数値化して行きます。

 

 例えば自分の財産から100万円を寄付するとします。

 

 普通なら、自分達は自分自身の価値観≒感情に従って寄付先を決めるでしょう。貧困世帯への支援をしているNPOに寄付するのもいいし、難病の治療法を研究している機関に寄付するのもいい。環境保護団体に寄付するのもいいかもしれません。それを決めるのは自分自身の価値観です。

 

 ですが『効果的利他主義』ではそれを数値で考えて行きます。どの分野・団体に寄付をする事が<いちばんたくさんのいいこと>になるか。それを徹底して数値化する事で、個人の主観による、言い換えればムラのある利他では支援の手が届かない様な、見落とされがちな人々や問題に対しても支援を届ける事ができる。もっと言えば、自分自身が支援者に回る必要はなくて、大金を稼ぐ手段があるのであれば自分自身は『稼ぐ側』に回り、その年収から一定割合を効果的利他主義の考え方に沿って寄付する方がより『効果的に多くの人々を助ける』事ができるかもしれないし、最初に寄付しようとした100万円を資産運用で増やし、その運用益を寄付した方がもっと効果的かもしれない。

 そうして個人の価値観や感情を排除して数値的な効果を追求するのが『効果的利他主義』です。

 

 本著を読んで『合理的利他主義』と『効果的利他主義』という概念を知った時、自分には何かこの『自利』と『利他』のバランスの崩れ方が、今の日本の問題なのではないかと思える様になりました。『自利』と『利他』の両輪が回るバランスが、その間に『利益や効率の追求』という価値観が挟まる事によって崩れている。そんな気がします。

 

 例えば以前別な記事で書いた様に、『同性愛者は子どもを産まないのだから生産性がない』(だから税金を使って支援する事には合理性がない)という発言が政治家の口から堂々と語られる様になりましたし、『生きるに値しない命』というものがあると信じる人の数も増えた気がします。

 

kuroinu2501.hatenablog.com

 

 他にも生活保護を受ければ社会のお荷物の様に言われ、少子高齢化社会の中で高齢者や未婚者、子どもを持たない家庭への風当たりが強くなりつつあります。それは社会に対する=社会を構成する個人に対する負担を増やすなという意志の表明であり、ある意味では追い詰められた個人の悲鳴なのですが、それが一部の人々によって都合よく解釈された結果、「社会から支援を受ける側も『義務』を果たす事で初めて『権利』を主張できる様になる」という考え方が生まれました。

 

 その『義務』とは「支援される側が自分の『立場』をわきまえて過度な要求をしない事」だったり「子どもを産む事」だったり「自分が受けるサービスよりも多くの負担を背負う事」だったりします。

 言い換えればそれは『合理的利他主義』を曲解し反転させた考え方で、『利益を返せないのなら利他を求めるな』という事です。でも、全ての人が自分に向けられた利他に何らかの利益を返す事など不可能ではないでしょうか?

 

 例えば自分は、社会福祉法人障がい者福祉に携わっています。勤務先は障がい者支援施設で、いわゆる『入所施設』です。入所施設では重度の知的障がいを持っていて、家庭や地域社会で自立して暮らして行く事が困難な方々が、介護職員による24時間365日の支援を受けながら共同生活しています。ですが彼等は社会にとって、何らかの利益を返せる人々でしょうか? 返せるとしたら、それはどんな利益でしょうか?

 

 自分は敢えて上の様に書きましたが、これだけでもう不穏なものが漂って来る気がします。『合理的利他主義』にしろ『効果的利他主義』にしろ、利他というものに何らかの成果≒利益や数値的効率を結び付ければ、それが果たせない人に対して利他≒支援の手が差し伸べられない事は合理的判断として容認されるという事になります。

 

 平たく言えば『役に立たないものは救わなくても良い』という事です。

 

 この、言葉にすれば身も蓋もない『切り捨て』が、理路整然として正しいものの様に聞こえてしまう事。それが今日本が抱えている『歪み』であり、その先にあるのが利他主義の死』です。

 ですが、『自利』を一切顧みず、自己犠牲的な利他を追求する事もまた『利他主義の死』へ繋がる道である様にも思えます。一直線で急激な死か、緩慢な死かの違いがあるだけで。滅私から出る自己犠牲的な利他を継続できる人は稀です。そして継続性がない支援は、それが途切れた時にこれまで助けて来た人々を巻き添えにします。

 

 では、自分達はどの様に『自利利他』のバランスを取って行くべきなのでしょうか?

 

 自分が仏教学部卒だから言う訳ではありませんが『嘘も方便』という言葉があります。

 『方便』というのは元々仏教用語なのですが、まあ「本当に伝えたい事を相手に届ける為のたとえ話」程度に思って下さい。

 

 まず前提として自分は本質的には『人間を有用性の有無で判断するのは止めよう』という立場です。役に立つとか立たないとか、利益を生むとか生まないとか、生きていても良いとか悪いとか、そういう価値基準を人間に当てはめる事は間違いだと思っています。ただ『合理的利他主義』を曲解している人に対して、方便として『重度知的障がい者だって社会の役に立っている』と主張する事は可能ですし、『重度知的障がい者を支援する事の社会的意義』を論じる事もできます。過去にも障がい者福祉に関連して、「『弱者を切り捨てて行こうぜ』という価値観に基づいて生きて行く事は、結局『いつか自分が切り捨てられる行為に手を貸す』という事だ」と書いた事があります。 

 

kuroinu2501.hatenablog.com

 これは「自分の利益になるから利他的な人間であるべきだ」と言っている訳ですから、今思えば『合理的利他主義』です。障がい者福祉に対する合理性を訴える為の方便ですし、自分自身に対する仕事への動機付けでもあります。実際自分はこの仕事で報酬を得ています。自らの利益になるからやっている。その事に嘘はありません。

 

 ですがその前提に立つと、仮に今の仕事が自分にとって利益にならなくなったり、社会的な意義が失われたりしたら、もう目の前にいる人達に対する支援が打ち切られてもいいのかという問題が生じます。

 

 実際、仕事であっても、お金を稼ぐという利益の為にやるのなら、福祉の仕事から離れたって構わない訳です。それこそ『効果的利他主義』に立って、自分はもっと別の仕事で利益を出して高額納税者になって、その上で寄付もするよ、という生き方を選んでもいい。そしてそのお金の稼ぎ方にしても個人投資や不動産を使った賃貸収入の様な限りなく不労所得に近い様なものだっていい訳です。自分の能力と資産的にそれができるかどうかという問題はありますが。

 

 でも、そこまで考えて、やはり問題はループして最初に戻る訳です。「『利他』とは何か」という事に。

 

 自分達は合理性が保たれているから利他をするんでしょうか?

 自分の利益の為に利他的な人間でいようとしているんでしょうか?

 自分という存在は、そんなに論理的でしょうか?

 

 これは思い付きですが、自分達は芥川龍之介の小説蜘蛛の糸に登場するカンダタと同じ様に、利他を行う時には何の他意もなくそうしているのでないでしょうか?

 

 後になってから、何で蜘蛛を助けたのかと聞かれれば、誰もがそれっぽい理由を思い付くでしょう。蜘蛛は害虫を食べてくれる益虫だからとか、単に無益な殺生をすると寝覚めが悪いからだとか。でもそれは理由を聞かれたから今考えたというだけの事で、本当の理由ではない気がします。そして本当の理由なんていうものは『無い』のかもしれません。

 

 本著の中でも中島岳志氏が親鸞歎異抄を紐解きながら『「利己的な利他」を超えられるのか』というテーマを示してくれています。その詳細は本著をお読み頂くとして、氏が示すのはそうした自分の意志で行う利他を離れた、外部からやってくる利他です。

 自分の意志の外側に利他があって、それは不意に、自動的に外からやって来るものなのではないか。自分達の内側には利他は無いのではないか。

 

 不思議な考え方に思えるかもしれませんが、自分にはこの考え方がとてもしっくり来ました。

 

 自分が考えていた『利他の死』とは、つまり『狭い意味で利他を定義する事』だったのかもしれません。『合理的利他主義』や『効果的利他主義』を曲解して適用すれば、利他というものと利己主義を連結する事ができます。見返りを期待する利他主義を広める事は、『利益が見込めない利他を行わない事』に正当性を与えます。そこでは利他は一方的な『施し』に過ぎなくなり、施す側は利益にならない事をする必要はない。だから、施しを受ける側は、自分がそれに足る利益を相手に返せるだけの『価値』や『有用性』を持っている事を示さなければならなくなる。そういう重荷を背負わせる事になる。

 

 その結果、『利他』は死にます。

 

 ならば自分達にできるのは、利他とは何かと問いつつも、そこに明確な定義を当てはめない事なのかもしれません。自分の利他的行為の理由を合理性の中に回収しない事。理由(≒利益)があったから助けた=理由がなければ助けなかったという罠にはまらない様にする事。合理的理由でも自己犠牲でもなく、特に理由もなく誰かを助ける事。

 

 目の前にいる誰かを助けなくても良い理由を、切り捨てても良い理由を探したい為に利他を定義するのではなく、誰かを助ける事にいちいち理由を求めなくてもいい様に利他とは何かを問う事。本著はきっと、その手助けをしようとしてくれているのだと思います。

 

 

僕らの「信仰」の物語として ルース・ベネディクト『レイシズム』を読む

 

 

 まずはレイシズム(racism)』という言葉から。この言葉は、最近になってまた日本でもよく見聞きされる様になったと思う。その語源は英語であれば『人種(race)+主義(ism)』であり、そのまま『人種主義』と訳される。

 

 日本大百科全書による人種主義の解説の冒頭は以下の通りだ。

 

 発生的にせよ環境の作用であるにせよ、諸人種の間には優劣の差があり、優秀な人種が劣等な人種を支配するのは当然である、という思想ないしイデオロギー

 

 しかしこのレイシズム=人種主義という考え方は、既に1942年にルース・ベネディクトが本書『レイシズム(原題:Race and Racism)』を著した時点で、完膚なきまでに解体されてしまっている。人種の優劣説などというものにはまったく科学的根拠がないと。

 

 実際に本著を読むと、歴史のあらゆる場面において、かつての王族や為政者、あるいは民衆の中の多数派といった支配者層がいかに人種主義を自分達にとって都合よく、恣意的に扱って来たかという事が分かる。例えばかつて人種的に劣等だとしていた相手が属する国と同盟を結ぶにあたって、その差別的な扱いが次第にトーンダウンして行く事もあったし、逆に利害対立が明白になった相手をそれまでの対等な地位から劣等的な人種へと格下げする事もあった。『昨日の敵は今日の友』であり、その逆もまた真であるとはいえ、あまりにもいい加減な尺度だ。

 

 そしてそのいい加減な尺度によって生じた対立――戦争や虐殺が、あらゆる無辜の民の命を奪って来た。

 

 人種主義には『輝かしい人種に属する私』的な自己陶酔に基づく幻想と、自己正当化にとって都合の良い道具としてそれらしく整えられた主張があるだけで、客観的かつ誰をも納得させられる様な実体は何ひとつ存在しない。

 

 言ってみればレイシズムは既に死んでいる。

 しかし、その死体がいつまでもこの社会を歩き回っている。

 我が物顔で、さながらゾンビやホラー映画の怪物の様に何度殺されても蘇る。

 

 なぜこんな荒唐無稽な主義主張がここまでしぶとく生き残っているのか。

 身も蓋もない事を言えば、それはレイシズムを信じたい人』がいるからだ。

 

 レイシズムは既に『信仰』だ。信仰には客観性も科学的根拠も必要ない。

 

 

 ――とまあ、ここまでが長い前置きみたいなものだと思って下さい。

 

 自分が仏教学部卒だから言う訳ではないけれど、この『信仰』の問題は実は厄介で、最近よく聞く『ファクトチェック』の様な事実=ファクト(fact)に基づいた誤りの指摘では、信仰は覆せないんですよね。本著『レイシズム』がいくら人種主義の誤りを指摘しても、社会からレイシズムを駆逐できない様に。それが証拠に、本著が書かれたのは1942年だそうですが、それから現在に至るまで、自分達が抱える人種主義に基づく差別の問題は一向に解決していません。

 

 『信仰』と言うと難しいイメージですが、要するに自分達は『何を信じたいか』また『何を信じるべきか』という事をかなり情緒的に、主観的に決めてしまっていると言えます。よく『鰯の頭も信心から』と言ったりしますが、自分達は日々『信じたいものを信じる』という事を普通にやっていて、その『信じたい』という気持ちに至る前に『対象が信じるに値するかどうか』という検証を必ず行っているという訳ではありません。

 何の根拠もなく何かを強く信じてしまう。そんないい加減さが自分達の中にはあります。

 

 だからこそ、レイシズムは根拠のない幻想に過ぎない』という事実を、例えば『日本人は優秀であり、自分もまたその一員である』という、これもまた根拠のない優越感で上書きする事が可能になっている。もちろんこの「日本人」の部分は任意の国名でも人種でも構わない訳です。

 

 そして自分達は弱いから、自分に厳しくするよりも甘くて楽な方向に流されて行きます。

 厳しい現実(例えば自分達の欠点や問題点)に目を向けるよりも、プライドを慰撫してくれる様な甘い言葉に耳を傾けていたいと思ってしまう。水が高い所から低い所へと流れて行く様に、それは自然な成り行きです。

 

 そう、自分達は『確固たる信念』などという強靭な意志を持たなくても、『ただ何となくの情緒』を信仰にまで高めてしまう事ができるし、その何ら根拠のない信仰に寄りかかる様にして生きて行く事だってできてしまうんです。良くも悪くも。

 

 ではなぜ自分達はレイシズムの様な忌むべき価値観を『信じたい』と思ってしまうのか。

 

 指摘すべきはレイシズムの誤りではなく、『自分達はなぜ生きる上で誤った信仰を頼りにしてしまうのか』という事です。そしてそれは本著の中で既に明らかにされています。長いですが、引用します。

 

 

 レイシズムは科学的探求に耐えるような中身を持たない。宗教のように辛うじて時系列を追うことだけができるような、信仰の一種にすぎない。科学に覆いかぶさっているこの信仰体系について、その価値を測るにはどうしたらよいだろう。レイシズムが何をもたらしたか、それを信じるのは誰か、そしてその背後にある目的は何かと問う必要がありそうだ。もちろん、レイシストが一つひとつのファクトをどのように扱っているかを検証することはできるし、それが正しいとか間違っていると判定していくことも難しくない。けれどもレイシズムがファクトを扱うやり方は非常に杜撰である。そして科学者が個々のファクトについて指摘をしても、レイシストの信仰はびくともしない。レイシズムの根源を解明するのは科学的追求ではない。求められているのは、どのような条件が揃ったときにレイシズムが生まれ、そして蔓延したかを明らかにする、歴史学の視座である。

 本質においてレイシズムとは「ぼく」が最優秀民族(ベスト・ピープル)の一員であると主張する大言壮語である。その目的を達するためには一番うまい手段であろう。自分にそれほどの価値がないとか、あるいは他人から批判されているとか、そういうものをすべて無視することができる。自分がそれまでにやってきた恥ずかしいこと、思い出したくないことをすべて消し去ることができる。自分の至らないところを指摘されたとしても、相手を「劣等な人種」と言ってしまうことで痛みを無化できる。母親の子宮の中にいるような究極のポジションが手に入るのだ。

 

 

 学問として仏教に触れた人間としては、『信仰』という言葉にはもっと奥深い意味があるものと思っていますが、本著で述べられている様な表層的な意味での信仰、つまり自分達が根拠なく何かを信じたいと思ってしまう弱さであったり、それを利用しようとする立場にいる人々にとって都合の良い道具であったりする『信仰(≠宗教的信仰心)』について考える時、本著は既に現在の問題点を指摘しているし、警鐘を鳴らしていたと考える事ができる訳です。繰り返しになりますが、本書が書かれたのは1942年です。ちょっと信じられない位、今の状況とリンクしていますが。

 

 この信仰という名前の、言い換えれば自分達の倫理観が抱える『脆弱性は、もうずっと長い間、為政者や権力者に利用され続けて来ました。というのも、自分達は、自らの生き方や価値を信じられなくなった時に、自分自身よりも大きく頼り甲斐がありそうな存在に救いを求めてしまうからです。そしてそうした弱さを自覚し反省する事よりも、母親の子宮の中にいるかの様な安心感に包まれていたいと願ってしまうからです。

 

 例えばテレビでやたらと日本スゴイ系の番組が目に付く様になって、それを見るのは最初は気持ち良かったり楽しかったりする訳じゃないですか。自分も好きでした。職人さんの手仕事を見るのも元々好きでしたし、日本の文化も好きです。何せ仏教美術を専攻したくらいですから。でも、日本文化に憧れを持つ外国の方を日本に呼んで体験をさせる番組等で「日本は凄い」を毎回連呼されるうちに、そうした番組が「当然海外にも日本と同じ様に優れたものづくりの文化や芸術が存在する事」を伝えてくれない事に気付き始めるんですよね。一方的に日本文化は凄いんだ、日本人は凄いんだっていう構成になってしまっている。「そりゃ、元々そういう趣旨の番組なんだからそうだろうよ」という受け止め方もできるんですが、それにしても一方的だろうと。そしてそれは、自分達が置かれている現状の日本が抱えている問題点をどんどんぼかして行ってしまう訳です。

 

 例えばそれは製造業や農業、サービス業に至るまで、外国人技能実習生がいなければ回らない状態になってしまっているにも関わらず、日本のものづくりは、技術力は世界一だと言い切ってしまう事だったり、日本の職人に後継者がいない事から目を逸らしつつ、その技術の高さだけを手放しで称賛してみたりする事だったりする訳ですが、それらの問題点を見ない様にしていた方が心地良い部分があるし、安心できるじゃないですか。

 

 そうした安心と心地良さだけを摂取する事を自分達が選び続ける限り、そしてそうした自分達の弱さを上手い事利用する形でこの国を治めて行こうとする為政者が上に立っている限り、自分達はこのレイシズムというゾンビと共存して行く事になってしまうんじゃないかと思うのです。そして人間はどんどん噛まれてゾンビ化して行く。ゾンビが一定数を超えた先にある悲劇として戦争があるのか日本の凋落があるのかは分からないとしても、意外と遠くない場所にそれらはもう迫っているんじゃないのかなと思います。

 

 だったらどうする? という所で、明確な答えがある訳ではないんですが、少なくとも自分達はもういい加減、一人ひとりが本書で書かれている『母親の子宮の中』から出なければならないんだろうと思います。ひ弱な赤子である自分を守ってくれる母のポジションに国家や政府や人種主義を置いて、根拠のない優越感に浸る事でプライドを慰める様な情けない生き方を捨てる時が来ているんだろうと思います。だって皆もう子供じゃないんですから。同じプライドなら、大人としての自覚をプライドと呼ぶべきだし、その矜持は自分自身で持つものでしょう。誰かに保証してもらうものじゃない。

 

 そして今度こそ自分の中に、自分自身の手で、他者を見下すのでもなく、利用するのでもない、そして誰かに持たせてもらうのでもない『信仰』を打ち立ててみませんか?

 自分も何とか、それを目指そうと思います。