老犬虚に吠えず

社会問題について考える場として

『神仏分離を問い直す』を読んで自分を問い直す

 

 

 

 ちょっと前にTwitterで呟きましたが、法藏館神仏分離を問い直す』を読んでいます。

 自分は大学で仏教を学んでいたので、Twitter経由でこの本を知った時には「これだ!」と思って小躍りしたのですが、そもそも大多数の人にとっては神仏分離って何よ』という話だと思うので、間に説明を挟みつつ、この本で書かれている様な『多面的な物事のとらえ方』というものが今の自分達には欠けているんじゃないの?という話に繋げたいと思います。

 

 最初にこの本について少しだけ書くと、この様な専門書は論文的な硬い文章で書かれている事が多くて全体的に『硬い』『とっつきにくい』印象を持たれる事が多いかと思うのですが、本著は『神仏分離150年シンポジウム』の内容をまとめたもので、話し言葉で書かれている分、非常に読みやすいです。入門書として非常に優れており、個人的にこの様な良著は「もっと売れろ」と思っているので念を送っておきます。

 

 さて『神仏分離』ですが、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)』という言葉で聞いた事がある人もいるのではないでしょうか。漫画を読む人なら、「和月伸宏氏の『るろうに剣心』京都編で十本刀の一人である“明王”の安慈こと悠久山安慈(二重の極みの人)が寺を焼かれ、身寄りのない子ども達が亡くなり、復讐者として立つきっかけになった事件の大本」と言うとうっすらと思い出すかもしれません。

 

 史実に話を戻すと、大政奉還から王政復古の大号令、更には戊辰戦争という流れを経て、徳川幕府による統治体制は終わり、明治政府による新たな統治体制に移行する事になります。その流れの中で、宗教界も大きな変革を迫られる事になった訳です。

 

 詳しくは自分の説明などよりも1000倍は面白い本著をお読み頂くとして、ざっくりと言うと、その変化とは神仏習合(しんぶつしゅうごう)』から『神仏分離』へ、という流れでした。

 

 神仏習合とは、日本土着の神祇信仰(神道)と、大陸から伝来し、日本に定着した仏教が融合し、新しい信仰体系として再構成(習合)された宗教現象の事を差すとされています。仏教伝来の初期には、ざっくり言うと仏教の『仏』は「何かとなりの国から来た神様」という扱いで、日本古来の神と同じ様な扱いを受けました。よってこれもまたざっくり言うと、『神≒仏』的に、神も仏も同じ様に祀るという状態となり、それが長らく続く事になります。

 

 これが仏教と神道の両者にとって何の摩擦もなく行われたかというとそんな事もなく、長い歴史の中では本地垂迹(ほんちすいじゃく)』に見られる様に「仏教の仏が人々を救う為に、神の姿になって降りて来るのだ」という考えが広まる一方、「いやいや、逆に仏が神の権化であって、神が主体なのだ」という反本地垂迹的な考え方に傾いた時期等もあり、言ってみれば「ラーメン屋の元祖と本家」みたいなマウントの取り合いが行われた事もあります。

 

 もっとも、民草からすれば「どっちのラーメンも美味いよ」もとい「いずれにせよ自分達を救ってくださるというありがたい存在」であった訳で、その信仰のあり方も含めて両者は互いに影響を与え合いつつ(時にはトムとジェリー的に仲良く喧嘩しつつ)日本人の信仰を支えて行く事になります。

 

 それが明治維新と前後して大きな転機を迎えます。

 

 これまで習合されていた神と仏は分離されるべきだという流れが起こりました、これまた詳しい説明は本著をお読み頂きたい訳ですが、その『神仏分離』の流れは、仏教界からすれば『法難』と言われる様な受難でした。具体的には寺が廃されたり、仏像が壊されたりしました。地方の民俗資料館等に行くと、縦に割られた木彫の仏像等に「これは廃仏毀釈運動の際に壊された仏像です」等のキャプションが付けられて展示されている事があるかと思います。先に書いた『るろ剣』のエピソードは、仏教界から見た、そして明治政府に敵対するキャラクターの側から見た歴史観をもとにしたものだと言えます。

 

 一方、神道にとって、これはある意味で習合状態からの独立でした。

 本地垂迹的な考え方の下では、(実際は必ずしもそうではない訳ですが)『仏が本地にあって、神がその垂迹であるという考え方は納得が行かない』という考え方が根強くあり、ネット上で廃仏毀釈神仏分離等で検索をかける際にも、寺(仏教)側が書いた解説と神社側が書いた解説では全く異なった書き方になっている場合があります。

 「やっぱり神仏習合はおかしい。それが神仏分離であるべき姿になったのだから、廃仏毀釈運動が一部過激化したのは仏教界にとって悲劇だったかもしれないが、考え方としては自然な事だ」という趣旨のまとめ方をしているサイトもあります。これらは神道側から見た歴史観であると言えます。

 

 この通り、仏教側から見れば『法難』『受難』であった事が、神道側から見れば『本来あるべき姿への回帰』であったという様に、歴史というものは『多面的な物事のとらえ方』をした時に、全く異なる表情を見せるものです。それを忘れ、一面的な物事の見方をしていると、物事の本質を見誤る事になります。更に言えば、この『仏教と神道』という宗教界の問題だけで神仏分離が語れる訳もなく、『江戸幕府から明治政府へ』『大政委任から大政奉還へ』という政治の流れ、日本の統治体制の切り替わりという大きなうねりの中で、日本人の信仰は大きな影響を受けたのだと言えるでしょう。現在は政教分離といって、政治と宗教は切り離されていて然るべきだという事になっていますが、かつては鎮護国家(学校で習いましたよね?)という考え方もあった位ですから両者の距離はもっと近く、互いに密接に関係し合っていた訳です。

 

 さて、ここまでが『前段』です。

 

 「待てやコラ」という声が聞こえて来そうではありますが、もう少しだけお付き合いの程を。

 先程書いた様な、『仏教と神道の軋轢』『日本の統治体制の変化』といったものだけで神仏分離を語る事もまた一面的なものの見方である、というのが本著があらわす「神仏分離『問い直す』」という部分にかかわって来る訳です。

 

 神仏習合期の仏教と神道の『対立』なるものは、どれ程のものだったのか。その中で民衆の信仰とはどんなものだったのか。また神仏分離を経た後に、社会にはどの様な変化がもたらされたのか。それらは様々な角度から今現在も研究されているテーマです。取り組んでいる方も学者や研究者だけではなく、宗教界等にもこのテーマに取り組んでいる方はいらっしゃいます。そうした方々は、それぞれの見識や研究テーマ、自身の立場から見える数多くの『面』を自分達に提供してくれています。

 

 自分はせっかく大学で仏教美術を学んだので、自分なりの受け止め方をする訳ですが、仏像(というか彫刻全般)は、多数の『面』によって構成された多面体なんですね。昔のポリゴンの荒い3D格闘ゲームのキャラクターや、3Dプリンターで出力された表面の荒い立体物なんかを思い浮かべてもらえるとわかりやすいかと思いますが、立体というのは多数の『面』の集合体です。(結論まで行くとこの『面』というのも無くなって行く訳ですが、そこに到達するまでの理解としては『面』はあります)

 

 普通の1から6までのサイコロは6面ダイスとも言いますが、100面ダイスになるとぱっと見の見た目がほぼほぼゴルフボールになります。どの面が上になっているのかわかりにくいので通常はまあ使わないんですが、それはさておき、この世界の立体物というものが多面体であるのと同じ様に、思想や信仰といったものも多面体であり、一面にばかり固執すると全体像を見誤るという事が起きます。そしてそれは、自分達が陥りやすい落とし穴でもあると言えます。

 

 近年、特にSNSが普及してくると、「自分の意見は絶対正しい」という、妙な自信に満ち溢れた人が増えた様に思います。SNSは本質的に承認欲求を満たす事に特化したツールなので、自分と意見が近い人や自分を褒めてくれる人を近づける一方、反対意見や対立する価値観を遠ざけて行きます。その結果何が起こるのかと言うと、客観性も何もなくただ自分が正しいと信じて疑わない人々が量産されて行く結果になるのですが、その落とし穴にはまっている本人は、その事に気付いていないという事がままある訳です。これは本著でもその重要性が説かれているところの『問い直す』姿勢から程遠いと言えます。

 

 何かを、自分を『問い直す』という事は、今自分が持っている価値観やものの見方を一度脇に置いて、まっさらな状態で、別角度から同じ問題を見つめ直すという事です。あるいは自分が見ている『面』とは全く異なる『面』を見ている人と交流し、意見を交換する事です。そうする事で見えてくるもの、というよりも、そうしないと見えてこないものが社会にはたくさんあります。でも意識しないと、そうした『問い直す』姿勢を自分達は忘れがちです。なぜなら、ひとつの考え方に固執していた方が『楽だから』です。何かを学び直す必要もない。自分を変える必要もない。そういう『楽』に流れがちなのが人間です。もちろん自分もそうです。

 

 そこで、「いや、それじゃまずいでしょ」という事を思い出す必要がある訳ですが、自力でそう気付くのは案外難しいものです。だから本著が必要とされてきます。本著は神仏分離を問い直すという、歴史・宗教の専門書であると同時に、『問い直す』という事の重要性を広く一般に説く良著だと言えます。

 

 どうでしょう。自分達が見ている世界は、平面化していませんか?

 一面だけを見て、全体を理解したつもりになっていませんか?

 そうした気付きを、本著は与えてくれているのだと思います。

漫画版『戦争は女の顔をしていない』だからこそ届く読者がいることを思う

  

 

 小梅けいと氏の漫画版が話題になった事で、原作であり、取材に基づく実話であるスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ氏の『戦争は女の顔をしていない』の事を知りました。それだけでもこの漫画版について自分は感謝したいのですが、こうした『戦争』を描く作品が漫画化される事には否定的な意見がつきまとうものだと思います。本作の絵柄を問題にするツイートもいくつか目に留まりました。

 

 確かに小梅けいと氏の絵柄は、登場する女性たちを可憐に描いていると思います。ただ少なくとも自分は、その事をもって本作を否定する気にはなれません。なぜなら本作は、『戦争というものを全く知らない若者』に届ける事を念頭に置いて、『どうすれば若者に原作の持つ凄まじさが伝わるか。それ以前に、どうすれば彼等の目に留まり、手に取ってもらえるか』という事を考え抜いた結果、今のこの形になっていると考えるからです。それは自分に言わせれば『漫画=芸術が持つ力を正しく見極めた上での選択』だと思います。

 

 それがどういう事なのか説明する前に、ちょっと回り道をします。

 

 自分は、大学時代に仏教美術を学んでいました。美大生だった訳ではなく、ゼミに入るまでは全くの素人です。美術や芸術の基本も歴史も何も知らない。同じゼミの仲間も大体そんなものです。これが意外と面白いもので、自分達から出て来る疑問は端的に言って全部『素人考え』な訳です。ちゃんと基礎を学んでいる人間なら知っている様な事にいちいち驚き、躓いて行く。関心を持って食い付いて行く。その中に、こんなものがあります。

 

 『そもそも仏教美術って、何で必要とされてんの?』

 

 このレベルからです。でもこれって、考えてみると凄く面白いテーマでもあります。

 

 仏像とか寺院建築とか、仏具とか、お坊さんが身に着ける袈裟とか、仏教には様々なビジュアルがあります。でも、本質的に仏教というのは『教え=教義』がメインであり、他の宗教と比べても非常に哲学的です。だったら何で荘厳な仏教美術の数々が必要なのでしょう?

 

 自分の卒論のテーマの一つはこれでした。なので早口で説明したいところですが断腸の思いで割愛して自分が考える結論だけ書くと、それは『人は目に見えない教義を信じる為に、目で見て、手で触れる事のできる確かなもの=仏教美術を必要とするから』です。なんのこっちゃ、と思うでしょうか。

 

 自分は本を読むのが好きですが「赤い花が咲いている」という一文で、貴方はどんな花を思い浮かべますか?それは今自分が思い描いたのと同じ花でしょうか?自分は、あなたの心の中に咲いている花と、自分の心の中に咲いている花は絶対に同じものにはならないと思います。

 

 言葉や文字というのはそうしたものです。言葉そのものにイメージが付いている訳ではなく、「その言葉によって自分がどんなイメージを思い浮かべるか」という事が全てです。ですから極論すると本を読んでも『自分の中に答え(イメージ)がないもの』を思い浮かべる事は不可能です。受け手である自分の中にどれだけのイメージが眠っているか、そして書き手が選ぶ言葉がどれだけ巧みに読者の中のイメージを想起させるかが全てです。だから、あえて書きます。

 

 「『悟り』って何ですか?」

 

 この時点で、少なくとも凡夫である自分はお手上げです。

 『悟り』なんて見た事もなければ触れた事もない『概念』です。その概念を自分の中に想起しろと言われても、まさに取り付く島もない状態です。仏教では『方便』と言って、様々なたとえ話を用いて何とか教義を理解させようとする訳ですが、それにしても限度というものがあります。そこで、『美術という「現物」が持っている存在感を利用してわからせる』という、ある意味暴力的な手段が取られる訳です。これだ!というイメージを現物の形にして目の前に差し出す事で、難解でとらえどころのない概念は自分達が目で見て、触れる事が可能な実体を獲得する訳です。そして一度目にしたものなら、自分達は言葉によってそれを想起する事ができる様になります。

 

 だから「悟りを開いた人ってどんな姿なのよ?」と言われれば山程の仏像を作り、「極楽浄土ってどんな所よ?」と問われれば力技で中尊寺金色堂を作る訳です。百聞は一見にしかず。どうだ見たか!これで一目瞭然じゃ!という奴です。

 

 だから、怖い。

 

 美術や芸術が持っている『力』『怖さ』とはこの『存在感』です。本来形のない概念にすら形を与える事が出来る。多くの人々の目に触れる事で美術の方が『実体』になって行く。それは自分達の中に確固たるイメージを植え付ける事、叩き込む事です。ある意味でも何も芸術や美術というものはこうした意味ではれっきとした暴力です。人を感動させる、心を震わせるというのは、それだけの衝撃を与え得る力で殴り付ける=人の心に干渉するという事だし、そうした力を持つ存在はやがてそれ自体が崇められる様になります。偶像崇拝の禁止とは、つまりこうした偶像が持つ力を抑制する為の仕組みです。

 

 前置きが長くなりましたが、ここで話は一周して『戦争は女の顔をしていない』に戻って来ます。では訪ねます。

 

「『戦争』って何ですか?」

 

 あなたの心の中には、どんなイメージが湧き上がりましたか?

 

 人によって様々だと思いますが、日本では『自身の戦争体験』を思い起こす事ができる世代の人々は本当に少なくなっている筈です。自分だってもう40代のオッサンですが、自分の父が既に終戦の年に生まれたという世代ですから、当然戦争のせの字も知りません。そんな自分が思い浮かべる事が出来る『戦争』のイメージがどこからやって来たのかといえば、それは間違いなく戦争映画やドラマ、漫画、アニメ、ゲームといった映像からです。当時の実際の記録映像もありますが、自分の場合、入口はやはり様々な映像作品でした。

 

 これを読んでくれている貴方の『戦争のイメージ』はどこからですか?

 『地獄の黙示録』ですか?『プラトーン』ですか?『火垂るの墓』ですか?『はだしのゲン』でしょうか?それとも『プライベート・ライアン』の冒頭15分?

 

 それらは、戦争の全てですか?

 

 ……自分は、思うんですよ。自分からして既に戦争なんて知らないのに、自分の子どもたち(まあ自分自身は独身ですが)の世代から見れば、戦争なんてものは既に仏教における『悟り』と同程度に想像も付かない『概念』になってしまっているんじゃないかって。だって体験した事もないし、こればっかりは自ら体験しようという訳にも行かない。だから、言葉の上だけで得た知識を元にして「わかった様なつもり」になってしまう事だって簡単にできる。それが実像とどれだけかけ離れたものになってしまっていたとしても、答え合わせをする為の実像を自分の中に持っていないから。

 

 そんな社会に、原作である『戦争は女の顔をしていない』に記された言葉がそのまま投げ掛けられた時、自分達はそれをどれだけ実感を伴ったものとして心の中で想起する事が可能なのでしょうか?それは原作が優れているかどうかとは全く別問題です。問題は受け手である自分達の、酷い言い方をすれば『劣化』にあるのだから。

 

 だから自分は、漫画版の『戦争は女の顔をしていない』は、もっと売れるべきだと思います。なぜならこの漫画は自分よりももっと戦争から遠く離れた若者に直接届く様に計算されているからです。小梅けいと氏の絵柄もその為にあります。本作は、本来実体を伴った戦争が概念になりつつある世代に、「これは架空の物語じゃなくて実話なんだよ、彼女たちは実際に戦争という時代を生きたんだよ」という事を知らしめる為の入口となる役割を担っていると言えます。

 

 その上で、「いや、実際の戦争というものはもっと泥臭くて救いが無くて、当時を生きた女性たちもこんな可憐な姿じゃなかった筈だ。彼女たちはこんな風に美化されるべきじゃないんだ」という感想を抱いたのなら、本作を否定するのではなく、自分が正しいと感じる表現も並行して世に出して行く、或いはそうした表現を支持して行くべきです。多くの選択肢が受け手に示される事が大事で、そうした意味では現状まだまだ戦争に対する表現は数が少ない様に思います。その証拠に近年は「ちょっと戦争してみるのもいいんじゃないか」みたいな空気があちこちで醸し出されている。その危うさにこそ、自分達は対抗して行かなければならないのではないでしょうか。

 

 追伸。岩波書店様のTwitterアカウントによれば原作の第9刷は2月中旬に重版出来予定との事で、自分はそれ待ちです。

 

『美空ひばりさんのAI』が歌い続ける未来像は、宗教の本質である

 

 昼間にこんなツイートをして、書きたい事は全部このツイートというかスレッドに書いてあるのですが、こちらのブログにもまとめておこうと思ったので転載します。

 

 何か『美空ひばりさんのAI』の話題が流れてくるのを見てて思ったんですが、大学で仏教を学んだ人間からすると、これって宗教の一側面の様な気もして考えさせられるんですよね。まあその受け止め方自体が自分の誤読かもしれない訳ですが、以下にまとめたいと思います。

 

 仏教の場合は仏陀その人が亡くなって初めて、お弟子さん達の手によって『経典』『戒律』ができた訳です。これを『第一結集』と言った訳ですが、要するに読んで字の如く、お弟子さん達が集会を開いたんですね。

 

 何が目的だったのかと言うと、それまで仏陀の教えというものは口伝や暗唱で伝えられていた訳ですが、仏陀が入滅した、つまりは亡くなった事で、彼の教えが散り散りになったり、誤解や思い込みによって異説が生じたりする事を防がなければならなくなった訳です。仏陀の生前はいいんですよ。迷ったら本人に確認する事が出来るから。「師よ、あなたは以前こんな事を仰っていましたが、その真意とはどんなものだったのでしょうか」という風に。

 

 それが仏陀の入滅によって不可能になった時に「仏陀の教えとはこれだった」というものをまとめなければならなくて、今回の件で言えば様々な情報をAIに学習させた様に、仏陀その人の教えを知るお弟子さん達が、彼の教えだとされる言葉をまとめて行くんですね。だから経典の冒頭に『如是我聞』(私はこの様に聞いた)という言葉が入ってくる訳です。

 

 問題は、仏陀の死後にまとめられた経典と、仏陀その人の考えは本当に同じだったのかという事を、現代の自分達が確認する手段が無い事です。宗教的には同じであるという事になっていますが。(そこに疑いを挟むとあらゆる宗教が成り立たなくなるので)

 

 ただ事実として、宗教というのは必ず教祖や開祖といった存在を失った後に、その後の教義の解釈を巡って意見の対立が起こります。そして、その結果として教団は分裂して行く事になります。よく聞く『~派』というのはその枝分かれした後の教団ですね。

 

 仏教の場合は仏陀の死後100年を経て『根本分裂』という大きな教団の分裂を経験します。更に後の時代になるとそれらはもっと枝分かれして行く。それは宗教としての劣化や本質からの乖離ではなく、変化する時代や新たな土地、またそこに住む人々に対応する為の『多様性の獲得』だと今の自分は思っていますが、それでも仏陀を人間として見た時に、故人の意思から少しずつ離れて行くのは事実な訳です。仏陀の手からは離れて独り歩きを始める事になります。たとえ仏陀といえども、それを阻む事はできません。

 

 美空ひばりさんAIの話に戻ると、それを望むのは『周囲』なんですね。『本人』ではない。仏陀が死後教団の存続や自身の教えの継承をどの程度願っていたかは分からないけれど、残された人々にとってそれは『必要だった』から行われた訳です。仮に故人がそれを望んでいなかったとしても。

 

 そう考えると、美空ひばりさんのAIが新曲を歌い続ける未来というのは、宗教が存続し続ける根本原因と同じなんですよ。周囲が望み続ける(祈り続ける)限り不滅の存在というものが宗教の中には昔からあった訳ですが、現在の自分達は更に具体的な形として『永遠に歌い続ける昭和の歌姫』をAI技術とCGで作れる様になってしまった。 それがどの程度オリジナルの本質や意思を反映しているかというのは全く別問題ですが事実としてそれは既に可能な訳です。

 

 なので、長々と書きましたが、自分はこの件はもう少し継続的に考えて行く必要がある気がしています。 それは現代において宗教がどの様な役割を担っているかという大きなテーマと関係するからです。メディアの方は必要ならAI研究に携わる方だけではなく、宗教学の専門家に取材すると興味深い意見が出て来るかもしれません。自分もそういった方々の意見を聞いてみたく思います。

『フルメタル・パニック!』『コップクラフト』が好きなあなたへ・そして賀東招二氏が嫌いなあなたへ

 『フルメタル・パニック!』『コップクラフト』等の作品で知られる作家、賀東招二氏が、地球温暖化対策を求める環境活動家のグレタ・トゥーンベリ氏に対して批判的な(というより単に感情的に『嫌いだ』という内容の)ツイートをして炎上しました。

 

 批判を浴びたツイートを削除した上で、賀東氏は以下の様な反省の言葉を述べています。

 

 

 

 

 ここでは削除された元々の発言を再掲する事はしません。自分がこの文章を書くのはグレタ氏を擁護する為でも無ければ賀東氏を糾弾する為でもないからです。自分が伝えたい事は以下の2点です。

 

 記事のタイトルと順番は逆になりますが、まず賀東招二氏が嫌いなあなたへ』

 

 今回の賀東氏の発言は酷いものでした。あえて言えば、幼稚でした。大人の発言ではなかったし、自分も到底支持できるものではないです。ただ、賀東氏の環境活動家に対する評価や現状認識についてライトノベル作家だからこの程度なんだろう』『オタクだからこの程度なんだろう』『人型ロボットが活躍するフルメタの軍事描写をリアルだと思う程度の読者なり作者だから現実が見えてないんだろう』という、相手の属性や趣味嗜好に絡めた批判がいくつか見受けられるのですが、これは『未成年の環境活動家なんてこの程度に違いない』『大人が裏で操っているに違いない』という、グレタ氏に対する根拠のないバッシングと何か違うんですか?

 

 厳しい事を言う様ですが、賀東氏本人や彼の発言を擁護したファンに対してラノベ作家』『オタク君』の様な、相手の職業や属性を意識した揶揄、批判を繰り返している人は、自分もまた自らが批判している人々と同じレベルになってしまっている事に気付くべきだと思います。ただその上で、自分が同じオタクとして、ごく一部のグレタ氏批判に回っているオタク仲間に言わせてもらうなら「『グレたトンベリ』なんて言って『うまい事言ってやった感』でドヤってる、そういうとこだぞ」という感はあります。

 

 次、こっちがメインなんですが、フルメタル・パニック!』『コップクラフト』が好きなあなたへ。

 

 自分の好きな作家がSNSで暴言を吐いたりして炎上すると、がっかりするのは事実ですよね。特にそれが自分の意見と真逆だったり、社会的に批判されても仕方がない様なものだったりしたら。

 

 自分はこんな人の作品で感動していたのか。

 

 そう思ったとしても仕方がないです。自分も過去にそうした「がっかり」を何度も経験しました。

 『永遠の0』の百田尚樹氏の発言にげんなりしたり、『マルドゥック・スクランブル』の冲方丁氏が別居中の妻への傷害容疑で逮捕されたり、(後に不起訴処分)中学生位の頃に聴いていた『CHAGE and ASKA』の飛鳥涼ASKA)が覚せい剤取締法違反で逮捕されたり、その他数えきれない「がっかり」があった訳です。

 

 でも、どうなんでしょうね。自分達読者や視聴者は、彼等の発言が炎上したり、犯罪者になってしまったりして社会的に非難される度に、自宅の本棚から小説や漫画を引きずり出して処分したり、CDやDVDを叩き割ったり、ゲームをアンインストールしたり、その作品が好きだった記憶を無理に抹消したりしなければならないのでしょうか。

 

 結論から言えば、そんな事は無理です。

 

 自分が彼等の小説や歌や漫画、映画といった表現に触れる事で抱いた思いや、過去の思い出は、既に今を生きている自分の中で『血肉』になっています。自分の体の一部であり、もっと言えば思想や信条といった『自分そのもの』の一部になっている訳です。それを後になってから引き剥がして捨てるなんていう事が出来る人はいないのではないかと自分は思います。

 

 だから、もしこれを読んでいるあなたが『フルメタ』や『コップクラフト』を『好き』なら、それを『好きだった』にする必要はないと思うのです。その上で、今回の賀東氏の発言に対して批判する事も擁護する事も自由にやればいい。先に言った様に、氏の今回の発言がまずかったのだとすれば、それはラノベ作家だからでもオタクだからでもなく、今の賀東氏の認識や価値観が周囲から批判されるものだったというだけの事です。それはもしかすると、この先彼の中で変わって行くかもしれない。

 

 一言で言えば、一度も過ちを犯さない人間はいないという事になるのだと思います。自分だって聖人君子ではないのに、好きな作家だから、自分にとっての憧れの人だからと彼等に『常に正しくある事』を求めるのは、『好意』や『尊敬』ではなく『信仰』です。熱狂的なファンを『信者』と言ったりしますが、言い得て妙ですよね。

 

 自分が仏教学部の卒業生だから言う訳ではないですが、生身の人間が『信仰』を受け止める事は無理でしょうね。死後ならばともかく。なぜなら、人は生きている限り変化し続ける存在だからです。それが良い方向にだけ向かうとは限らない。人は生身故に、常に成長しやがては老い衰えて行く存在であるが故に、揺らぎ続ける存在でもある訳です。

 

 そして『信仰』と言えば忘れてはならないのは、いくら自分が尊敬し、敬愛する人だとしても、「彼等だって時には間違うのだ」という事を忘れない事です。好きな作家だから、漫画家だから、歌手だから、スポーツ選手だから、映画監督だから、アイドルだから、その人達が言っている事は常に正しい筈だ、批判する方が間違っているんだというのは、そう信じたい自分の中にだけ存在する幻想です。断言してもいい。

 

 だからもしも自分が愛する作品の作者が、今回の件で言えば賀東氏が、自分が信じる価値観を否定する様な発言をしたなら、作品を嫌う必要も過去の記憶を捨てる必要も無いけれど、「賀東さん、それは違うんじゃないですか」と思える自分を持っていて欲しいと思います。作品と作者が同じではない様に、どんなに尊敬する人の言葉であったとしても、彼はあなたではないのだから。

 

 かく言う自分にも好きな作家は何人もいます。でも彼等も変わって行くだろうし、自分だって変わって行くでしょう。そして自分達を取り巻く社会だって、常に変わって行く。だとすれば、意見が対立する事もあるだろうし、全く異なる価値観を信じる様になる事もあるでしょう。でも、一度は離れて行った人と、その先の道でまた出会わないとは限らない。お互いが自分の過ちに気付いて、進む先を少しずつ変えて行ったとしたら、その先の道はまた繋がるかもしれない。自分はある時から「遠くに行ってしまった」様に感じる人達について、そんな思いで再会を待つ様になりました。それがいつになるかは分からないけれど。

 

 だから今、急いで『好き』を『好きだった』に変えないでいてあげて下さい。

 

 自分がこの件で言いたいのは、そんな単純な事なのです。

織田信成氏のモラハラ訴訟が叩かれる理由

 

news.yahoo.co.jp

 

 これ、男性として嫌なニュースだったので短いですが言及します。

 

 なぜ嫌なニュースだったかと言えば、マスコミはこれまで織田さんが『男らしくない』事を面白がって番組に起用していたのに、今度は同じ理由でバッシングに近い質問の投げかけ方をしたからです。

 

 アマチュアフィギュアスケートの選手だった頃から、織田信成さんは涙もろい人として知られていました。解説者として、またバラエティー番組出演等の芸能活動を始めてからも、番組中に涙ぐむ場面が多々あり、それが織田さんの「人柄の良さ」を感じさせるものとして肯定的に捉えられて来ました。でもそれは、言い換えれば『男らしくない』事でもあります。

 

 『男が人前で泣くな』とは昔からよく言われています。自分も言われた事があります。

 

 そんな中、人前で涙を見せる織田さんは、優しさや親しみ、人柄の良さを感じさせる人物として人気を博しましたが、その人気の裏側には『あーあ、織田さんまた泣いてるよ』というからかい、もっと酷く言えば嘲りがあった気がします。

 

 今回、織田さんは関西大学アイススケート部の監督だった時に、同部の浜田美恵コーチから無視や陰口、高圧的な態度等のモラルハラスメントを受けたと訴え出た訳ですが、訴えを起こした事、またその1100万円という損害賠償の金額、更にはアイススケート部が競技シーズンに入るタイミングで訴訟が行われた事等について、織田さんが開いた記者会見で質問に及んだ男性記者の口調は『むしろ織田さんが悪いのではないか』という感情を隠しきれていなかった様に思います。

 

 「監督とコーチという関係なのだから、コーチに意見できないのは織田監督個人の資質の問題なのではないか」

 「選手の指導方針の食い違いや職場の人間関係の問題を司法の場に持ち出すのはいかがなものか

 

 そういった記者の本音の部分が質問から透けて見える気がします。そしてその本音を一言で言い換えるならば、「織田さんは『男らしくない』」という事になるのだろうと思います。

 

 女性コーチからきつく当たられて言い返せないのは「男らしくない」

 職場の人間関係のトラブルを訴訟で解決しようとするのは「男らしくない」

 選手に与える影響を考えず、この時期に訴訟に踏み切った事は「男らしくない」

 

 男性記者の質問の端々からそういった意図が感じられた会見でした。でもその『男らしさ』って、そこまで男性が守らなければならない価値基準なのでしょうか。あるいは、縛られなければならない価値基準なのでしょうか。

 

 仮に今回のモラルハラスメント被害者と加害者の性別が逆だったらどうだったでしょう。ベテランの男性コーチが、若い女性監督にきつく当たり、本人に聞こえる様に陰口を言ったり、無視したりする事を繰り返していたら、それでも質問する男性記者は「1100万円という高額の損害賠償」だとか「競技シーズンを迎える選手に与える影響」だとか口にしたでしょうか。訴訟を起こした女性監督の方に問題があるのではないか、コミュニケーション能力やリーダーシップが不足していたのではないかという前提で質問をしたでしょうか。

 

 繰り返しになりますが、マスメディアや自分達は、人前で涙する『男らしくない』織田さんを面白がって消費して来ました。「それも織田さんの魅力だろう」とかなんとか言って、『あーあ、織田さんまた泣いてるよ』とバラエティー番組等で面白おかしく伝えて来ました。それが、実際に織田さん本人が体調を崩す程精神的に追い込まれるに至って、彼が『男らしくない』事を理由にバッシングに近い態度を取るのは卑怯じゃないかと自分は思います。特に、今までその『男らしくない』織田さんの泣き顔を放送する事で番組を作っていたテレビメディアは不誠実でしょう。

 

 対人トラブルやハラスメントの被害が、『男らしさ』の有無でこんなに評価が変わるのならば、そんな男らしさに何か意味があるのでしょうか。最近表現の自由ジェンダーの問題でSNSが賑やかですが、自分はこの織田さんの問題にこそ『男らしくある事』を女性から、また何より同性である男性から強要され続ける、男性特有のジェンダーの問題が横たわっている気がするのです。

『DEATH STRANDING(デスストランディング)』と『ゲーム実況』から社会を見直す

 皆さん『DEATH STRANDING(デスストランディング)』(以下デススト)やってますか? 自分は現実の仕事とゲーム上の北米大陸を往復する日々です。(未クリア)

  

 

 国道建設にハマっているのですが、どこまで引いたとか言うとネタバレかもしれないので自重します。

 

 さて、以下デスストの面白さについて延々と語っても良いのですが、デスストのテーマを借りると現実の自分達が暮らす社会について様々な問題提起ができるな、という気付きがあったので、今回はその話をします。

 

 未プレイの方の為にデスストがどんなゲームかというと、『おつかいゲー』です。おつかいゲーといえば、「~に行ってきて」「~を取ってきて」「~を倒してきて」という課題(おつかい)をこなして行くタイプのゲームで、そもそも『おつかいゲー』といえばつまらないゲームを揶揄する為の言葉でした。指示された事を次々こなすだけで飽きてしまうとか、頼まれるおつかいが理不尽でモチベーションが保てないとか、単純にゲームバランスが悪いとか。『おつかいゲー』という言葉にはそういうネガティブなイメージがありました。そう、デスストが出るまでは。

 

 デスストでは主人公のサムが『伝説の配達人』と言われる様に、北米大陸の各地に荷物を運び、ネットワークを修復し、分断された都市やシェルターで暮らす人々を『繋ぎ直して』行きます。指示を受けて、指定された荷物を目的地まで運ぶというのは『おつかい』に他ならないのですが、それがこれまでの『おつかいゲー』から脱却できたのは、ゲームデザインの妙と物語性の高さ、そして『プレイヤー同士の繋がり』を強く意識させるシステムに理由がありました。

 

 例えば荷物を配達する為に川を渡らなければならないとして、自分が苦労して橋をかけたとします。その橋は他のプレイヤーにも共有され、誰かがその橋を渡れば、橋をかけた自分は「いいね」と評価してもらえます。同様に、誰かが自分を助けてくれる事もあり、こちらも「いいね」を返してあげる事ができます。こうして『自分の為にした事が、誰かを助ける事に繋がり、また誰かが自分を助けてくれる。しかもそれが評価され、社会的に肯定されて行く』という好循環が生まれる訳です。

 

 これはゲームの中での話ですが、現実の社会に置き換えて考えてみると、とても理想的な社会・個人のあり方であると言えます。互いに助け合う事でより良くなって行く社会のモデルケースがここにあると言っても過言ではないでしょう。

 

 ただ、現実の社会にあるのは『善意』だけではありません。『悪意』も社会には存在しています。『悪意』の代表格としては利己的な考えや自己中心的な価値観があります。自分が良ければそれでよい。その為に他人を出し抜く、欺く、裏切る、貶す等、様々な『悪意』が存在しています。そしてそこから『差別』も生まれてきます。デスストで言う『分断』という奴ですね。

 

 現実世界でも、分断の象徴とでも言うべき様々な『壁』が既に生まれています。

 

natgeo.nikkeibp.co.jp 

 自分達が仲間だと認めた人間だけを助ける。或いは評価する。その一方で自分達と異なる価値観を持っている人を排除して行く。仲間内の殻の中に閉じ籠って行く。そうした流れは、世界を細かく切り分けて行き、人々は孤立し、社会は分断されて行きます。

 

 ここで考えなければならないのは、『自分達はこの社会をどうして行きたいのか』という事です。どう変えて行ったら良いのか。そこに自分はどんな関わり方が出来るのかという事です。

 

 社会の中で、『善意』と『悪意』の総量は常に変化しています。ここからは自分の考えですが、社会全体をより良く変化させて行きたいと願うのなら、この社会の中で『善意』の方を増やして行くべきです。なぜなら、『悪意』に基づく行動は、短期的には誰かを出し抜いたり騙したりする事で自分の利益を増やすとしても、長期的に考えればいずれ自分の首を絞める行為になると考えるからです。

 

 話が抽象的になってきたので具体的な話に戻します。

 

 ゲームと言えば、『ゲーム実況』という動画配信のスタイルがありますね。自分も好きでよく観ます。

 今でこそ有名なゲーム実況者がゲーム会社とコラボしてCMに出演したりしていますが、かつてはゲーム実況そのものがゲーム業界的にマイナスなものと考えられていた時期がありました。

 その時系列について自分は詳しくないのですが、ゲーム実況というジャンルにあったネガティブなイメージとはおおむね次の様なものだと思います。

 

・ゲーム実況を見て満足してゲームを買わないユーザーがいる(かもしれない)

・発売直後のゲームが早解きされてネタバレ的な動画がアップされる

・発売直後のゲームに批判的な動画がアップされると売り上げに悪影響がある

・ゲーム実況者は自分でコンテンツ(ゲーム)を作っていないのに、ゲームの二次利用で利益を得ている。

 

 まだあると思いますが、大体こんな所でしょう。

 だから昔のゲーム実況動画では、『発売直後のゲームで動画を作るのはマナー違反』という意見も聞かれました。発売直後で皆の関心が高いゲームの動画はとても需要があり、仮に雑な作りの動画でも一定の再生数を稼げてしまいます。さらに、ネタバレ系の動画は字幕や実況等もなく、単にムービーを切り出して動画にした様なものもあり、発売から数日の間にラスボスやエンディング、隠し要素までばらされてしまいます。ネタバレのシーンを切り出してくるだけなので動画としての独自要素は無く、「自分でコンテンツを作った」とは言えないでしょうが、それでも需要があれば再生数は稼げる訳です。更にはそれらを見て「動画で見たから買わなくていいや」と考えるユーザーが実際にいたら、当然メーカーの売り上げは落ちます。

 

 また、「このゲーム買ったんだけどクソゲーなんで買わない方がいいですよ」的な動画や、最近では『~を救いたい』なんていう題名の「このゲームのつまらない点を指摘するから直せ」という動画もありますが、メーカーからすればいずれにしても「現状このゲーム買わない方がいいよ」と言われているに等しいので、あまり歓迎できないでしょう。

 

 もしも、ゲーム実況動画の8割~9割が、こうした『ゲームメーカーの不利益になる動画』で構成されていたら、ゲーム実況というジャンル自体、もう存在を許されていなかったかもしれません。ですが実際には(いつ頃風向きが変わったのか自分は詳しくないですが)かつてマナー違反とされた新作ゲームの動画配信を、メーカーと動画配信者がコラボして公式配信として行ったりしています。これが意味する所は何でしょうか?

 

 答えは、実際の動画配信者はゲームメーカーにとってもプラスになる様な、ゲームの魅力を伝える為の動画を作っているからであり、時に問題となる動画はあるにしても、全体で見ればゲーム実況動画というジャンル全体がメーカーからもユーザーからも信用され、求められているからです。その信用と需要を担保しているのが、言い換えれば先程言った『善意』です。

 

 ゲーム実況という全体の中で『善意』と『悪意』の総量を比較した時に、善意の方が勝っている事。それが、悪意のある動画も含めたゲーム実況全体が存続して行く為の価値を担保している訳です。だからゲーム実況というジャンルは続いて来られたし、むしろメーカーとのコラボ実現等で、より価値を増して来ました。これを、自分達が暮らす社会に置き換えてみると、分かってくる事があります。

 

 自分達が暮らす現実の社会にあるのは『善意』だけではなく、『悪意』もあるのだと上で書きました。その総量は常に変化しているとも書きました。では、自分達が暮らす社会全体を、より良いものに変えて行こうとするならば、必要なのは何でしょうか。再び問いますが、それは『自分達はこの社会をどうして行きたいのか』という事でもあります。

 

 善意の総量を増やして行くのか、悪意の方を増やして行くのか。

 

 悪意と戦って相手を倒すのは、実は大変です。エネルギーも時間も必要になります。でも、自分が何かを社会に対して発信する時に、『善意を軸にするのか悪意に基づくのか』を決める事は簡単です。

 

 例えば自分が読んだ本の感想を書く時には、割と感じた事をそのまま書いていますが、これが「気に入らない所を事細かく指摘する意地悪な文章」を書こうとしても、実はその文章を書く手間とか必要なエネルギーって「良い所を見付けて伝える文章」を書こうとする時とそうそう変わらないです。酷評する文章とか書きなれていないのでそっちの方が疲れるとか気が乗らないとかはあるとしても。

 

 さあ、どっちが良いですかね。自分だったら、善意の方を選べる自分でありたいと思いますが、皆が常にそうであるか、また自分が常にそうであるかは分かりません。時には悪意が勝る事もあるかもしれない。でも、同じ力を使って善意を増やすのか、悪意を広めるのかで言ったら、この社会には善意が増えて行くべきだと思うのです。デスストの中で、人が分断から繋がりの中へ復帰して行く様に。

 

 ゲーム実況動画を作る事、本の感想を書いてみる事、自分の側にいる誰かに親切にしてあげる事、誰かから受け取った好意に感謝する事、差別や偏見を遠ざけて暮らす事、社会をより良いものにする為に何が出来るだろうかと考える事。

 

 それらは、一見すると何ら関係がない物事の様でいて、その実全てが繋がっています。

 

 あなたは、どんな社会を、そして世界を望みますか?

 

 それを見付ける為に、自分はもう少し北米大陸を彷徨う予定です。

フェミニズムと表現の問題を再考する② 『排除』から『交雑』へ

 

kuroinu2501.hatenablog.com

 前回はここまで。最初に書いておくと今回は凄く長いです。

 

 

 

 今回は、前回の最後で書いた様に、神林長平氏の小説『先をゆくもの達』をテキスト代わりに、フェミニズムジェンダー、そして表現について考える。

 

 自分はフェミニズムについて理解する為に本作を読んだ訳ではないのだけれど、その内容はとても考えさせられるもので、この問題について日々考えている人や、意見を発信している人にはぜひ読んでもらいたいと思っている。

 

 まず作中で、人類は火星植民計画を実行に移すのだが、様々な要因で第一次から第三次の計画はことごとく失敗する。そして第四次計画では、「過去の失敗は全て男性的な要因によって引き起こされたのだ」と断定し、女性だけで火星へ向かう事を決めるのだ。少し長いけれど引用する。

 

 一人でも多くのヒトを火星に送り込むには<男性>はコンパクトな精子で移送するのがよい。男性の存在意義はヒトのバリエーションの増大にある。それ以外の役目は今回のミッションには不要だ。輸送コストは馬鹿にならないし。

 そのような考えが計画を立案した女たちの頭にあったのは間違いない。第四次火星植民計画においては、火星に男は連れ込まないという大前提がまずあって、精子は男とは認められていなかった。

 つまり男は植民計画から積極的に排除された。男を火星人にしてはならないということだ。彼女たちはかつて第一次、第二次、第三次、過去の植民がすべて悲劇的な結末を迎えたのは、男のせいだと断定した。

 男は縄張りを広げる戦争をやって戦利品を分捕ってくるのには役に立つが、そもそもそれを地球上でやり尽くした結果、地球環境を破壊しまくって女子どもを含むヒトは自滅に追い込まれたのだ。

 男を火星に持ち込めばいずれ火星でも同様になるのであり、実際、第三次の失敗は<男>性の暴走が直接の原因だ。同じ轍を踏むわけにはいかないと、女たちは人類の存亡をかけて、背水の陣で計画を立案し実行に移したのだった。

  

 とまあ、男性にとっては酷い言われようではあるが、概ね正しいとも言える。

 

 本作が描く世界では、この「女性だけが住む火星」は一定の成功を収める。

 

 子孫は冷凍保存された精子を用いて増やせば良い。また、女性の細胞から精子を作る技術もある。そして性別を選んで産み分けをする技術もあるから、そもそも火星で男は生まれてこない。<火星人憲章>にも『火星に男は無用である』という一節が書き込まれ、女性だけが暮らす星として火星は発展して行く事になる。自分は男性だけれど、架空の世界とはいえここまで真正面から男は不要であると言われるといっそ清々しい。

 

 さて、現実の日本は男性社会だと言われる。主に男性が会社経営や労働を行い、政治に携わり、男性的な価値観を基盤として社会運営をしているとされている。だから女性が社会に出て活躍しようとすると様々な障壁があるのだと。それは実際、その通りだ。だから実際に女性だけで繁栄して行けるシステムが構築されたら、男性を排除した生き方を選ぶ女性が出て来てもおかしくはない。

 

 男性を排除して独自の共同体を新たに作るという事は、何も男性が憎くてそうするのではなく、主に男性が構築してきた社会制度を一度全て捨てて、女性の視点から社会を再構築するという事になるのだと思う。そこでは女性が自ら政治を行い、経済を回し、子を生み育てて行く。男性的な価値観や従来の社会制度、慣習は排除される。

 

 こうした行為は、現実の世界ではまだ大々的に行われてはいないと思うけれど、男女の問題を『同じ価値観を持った人間だけで新たに共同体を作る』と読み替えると、実例はいくつかある。しばらく前にアメリカで問題になった『富裕層の独立』等はそれにあたるだろう。結構前の記事になるので、今は更に進んでいるかもしれないが。

 

www.nhk.or.jp

 

 富裕層は「自分達が納めている多額の税金が、貧困層への社会保障等に回され、自分達のもとにそれほど還元されていない」という事に対する不満を募らせていた。だから富裕層だけが暮らす共同体を作り、自分達の税負担がそのまま質の高い公共サービスになって還元される仕組みを作った。

 

 この問題はしばしば「貧困層の切り捨て」「自己中心的な富裕層の横暴」という経済問題で語られる。しかしながら、実際のところこれには別の側面もあると自分は考える。それは、人間誰しも思っている『自分と同じ価値観を持つ人々とだけ接していたい』という欲求だ。

 

 恐らく富裕層の中でも『自分達は裕福なのだから、貧しい人達よりも税負担が大きい事は受け入れるべきだし、彼等と同じ共同体の一員として生きるべきだ』と思っている人々がいるだろうと思う。そういう人々からすれば、富裕層だけが暮らす街に移住して行く人々というのは端的に言って自己中心的な人々だ。しかし、そうした「自己中心的な側面」を持つ人々だけが集まって暮らす共同体がもし出来たなら、その中では自己中心的である事が「当たり前」の価値観になるし、誰からも非難される事はなくなる。

 

 ここまで来て、『女性が自分達の権利を訴える事が自己中心的だとでも言うのか』とお叱りを受けそうなので予め断っておくと、『自分達は誰しも自己中心的なのだ』という事になる。

 

 既に今目の前にある「男性中心だと言われる社会」だって、ある意味では男性が主導して作り上げて来た『自己(男性)中心的な社会構造』だ。そこから離脱して、女性の価値観によって構築された共同体を作る行為もまた同じ様に『自己(女性)中心的な社会構造』を新たに作る事に他ならない。

 

 実際には異なる価値観を持って生きている両性同士が、ひとつの世界(共同体)の中で生きているから、その異なる価値観が衝突する所には摩擦が生まれる。では自分達は、厳然としてあるお互いの性差が生む摩擦から逃れる為に、それぞれ異なる共同体を作る事を目指すべきなのだろうか。虚構ではなく、実際にそれが出来るだけの技術を手に入れたとしたら、お互いに遠く離れて生きて行くべきなのだろうか。

 

 馬鹿げていると思われるかもしれないが、自分には『その通りだ』という声が聞こえる時がある。

 

 現実にはまだ、片方の性だけで完結する共同体はないが、自分達は既にSNS上で『自分と同じ価値観を持った人とだけ繋がり、異なる意見を持つ人は排除する』という事を日常的にしているではないか。

 

 自分の意見に賛成してくれる人とだけ繋がりを持ち、賛同の言葉だけを拡散して行く。一方で反対意見はミュートする。或いはブロックする。SNSは今やその様な使われ方をしている。見知らぬ人と『繋がる』為のツールではなく、同じ価値観を持った人間だけが繋がって交流し、異なる意見を退けて行く『分断』の為のツールだ。人と人を繋ぐ『縄』ではない。都合の悪い繋がりを一方的に断って行く為の刃物だ。そして生まれる『ネット蛸壺』とでも言うべき、ごく狭いコミュニティーにおける価値観を正しいものとして生きて行く。

 

 そうした人との接し方が標準化されると、『自分が受け入れられない価値観や表現など公の場に、また社会に存在すべきではない』(なぜなら自分は正しいから)という極論が正論として語られ始める。

 

 表現規制の話で言えば、何らかの表現が『公共の場においてふさわしくない』とされる時には大きな問題があって、第一にその『公共』とは誰にとっての公共か、第二に誰がその表現の可否を判断するのかという事がある。

 

 自分が正しいと感じている価値観は、誰にとっても正しい筈だというのは思い上がりだ。自分もよくこうした考えに陥るから自戒を込めて書くが、「誰が見ても」「常識的に考えて」「公共の立場からすれば」「倫理的には」「道徳的には」などというのは、持論を補強する為に引っ張り出される都合の良い枕詞であって、書き手の頭の中以外にその客観性が担保されている訳ではない。三者の検証に耐えない常識などというものは山程存在する。「職場でお茶汲みは女性がするのが常識だ」とか言われたら「どこの世界の常識だ」と女性が怒る様に、自分が常識と口にする時にもそれを疑ってかかる姿勢は必要だ。難しいが。

 

 では現実に存在する摩擦や軋轢に対して、自分達はどう対処して行くべきなのだろうか。

 

 現実に存在するセクシャルハラスメントや、それを誘発しかねない(と指摘されている)表現をどう受け止めて行くべきなのか。それもまた本作『先をゆくもの達』から読み解く事が可能なのではないかと自分は思う。

 

 女性だけが『火星人』として暮らす様になった世界で、その女性の中から『男性的な価値観』を持ち、『男性的な役割』を果たす人々が現れる。それは『女性の中の男性(的な部分)』とでも呼ぶべき性質であり、同様に男性の中にも『男性の中の女性(的な部分)』が存在する。そして異なる惑星にまで離れていた火星人と地球人は、あるきっかけを経て再び交流を持つ事になる。更には人類以外の知性とも。

 

 それは、『人は異性の存在なしに生きられない』というよくある言葉の為ではなく、離れている存在や文化といったものは、自然と『交雑』して行くという事だ。人為的にではなく、自然とそうなる。分かれていたもの同士は再び出会い、混ざり合い、新たな何かがそこから生み出される。

 

 この『交雑』という事を考えた上で言うなら、ある立場から見て『正しくない』と思える表現に対して取るべき手段は、『規制』『排除』ではなくて、自分が正しいと信じる『新たな表現』を社会に送り出して行く事だ。

 

 相手の表現を規制し、排除するには相当な力が必要だ。当然抵抗がある。摩擦も生じる。それならば、そこで消費されるエネルギーを『新たな表現』を生み出す為に費やすべきなのではないだろうか。

 

 今回の件で言えば、女性の目から見て不快ではない表現、自分達の性や誇りが傷付けられたと感じない表現だ。そうしたものを生み出し、世に放って行く。それらは今までの表現と出会い、混ざり合い、『交雑』し、両者を内包する文化全体の性質を変えて行く筈だ。

 

 この社会全体を大きな器としてとらえる時、その中に存在する表現を『許されるもの』と『許されないもの』に分けて、許されないものを削ぎ落として行くのではなくて、自分が信じる『望ましいもの』を増やして行く事で全体を変えて行く。それが出来たなら、許されない表現を削ぎ落とす事で生まれる社会、文化よりも、より大きなもの、望ましいものを自分達は手に入れられるのではないだろうか。

 

 長くなったが、最後にまた本作から引用する事で自分からの意見は終わりとしたい。

 

 世界とは、人の数だけ、ある。一生のうちに出会うことのなかった人、一度も足を踏み入れなかった土地の光景、それらはわたしの人生とは別の世界の人であり、景色だ。時間も空間も関係なく、それらは重なって存在している。一生で一度も出逢わない人物というのは、歴史上の人間であろうと、いま家の外を歩いている人物であろうと、条件としては同じだ。そんな対象の人間は無数に存在し、各人それぞれが自分の世界に生きている。それらは幻などではなく存在しているだろう。現実とは、そうした多数の世界で出来ている。わたしたちの<現実世界>とは、そういうものだ。